ルカの福音書2章41-52節

先週はクリスマス礼拝でしたが、今日の箇所ではイエス様はもう12歳になっておられます。「イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った」(41)。当時、エルサレム神殿まで毎年礼拝に行くのはかなり信心深い家庭でした。「過越の祭り」というのは、昔イスラエルの民がエジプトで奴隷になっていた時、神様はエジプトの家々に裁きをくだしましたが、神様の指示に従って家の門に小羊の血を塗っていたイスラエルの家庭には災いは起こらず、無事にエジプトを脱出することが出来た、という出来事を記念する祭りです。この過越しの血はイエス様の十字架を象徴しています。「イエス様はわたしの罪を背負って代わりに十字架で血を流し、死んでくださった」ということを信じる人は「小羊の血を塗った家」とみなされ、神様から裁かれることはありません。イエス様の両親は、自分たちの息子が世の罪を取り除く「過越の小羊」であることなど、まだ知る由もありません。一般のユダヤの男子と同じように、宗教教育の一環として少年イエスをエルサレムに連れて行ったのでした。いつしか両親は、地上の幸せを求めるようになっていたのでしょう。ところがエルサレムから帰る途中、両親はイエス様がいないことに気づき、捜しまわりながらエルサレムに戻ります。するとイエス様は、神殿で教師たちの話を聞いたり、教師たちに質問したりしておられたのです。人間的に考えたらイエス様の行動は「不適切」と言えます。しかしイエス様は両親に、大切なことを教えようとされたのです。イエス様の使命が、ただ自分たちの家庭の幸せにあるのではなく、全世界の人を罪から救う救い主としての務めにあるということを。自分の幸せを追い求めてイエス様を捜しても、見つかりません。本当のイエス様は、わたしたちを罪の罰から免れさせるために十字架で血を流してくださったイエス様です。そのイエス様を、わたしたちは聖書の中で見出すことが出来ます。わたしたちは聖書のすべてを理解することは出来ませんが、聖書によっていつもイエス様の十字架に立ち返る時、わたしたちはイエス様を捜し当てます。そして「柔和」や「寛容」といったイエス様のご性質を服のように着せていただき、「神と人とに愛され」る者(52)となるのです。まるでイエス様ご自身のように。そこに本当の幸せがあります。

(永田 令牧師)