「悲しみながら生きること」 2024/10/13
マルコの福音書10章17-31節
イエス様は、私たちの心の中の罪を指摘されます。たとえば、マタイ5:27-28で姦淫について言われるお言葉は、その対象がどんなことであっても言えることです。その厳しい基準によれば、人間である限り、内側の見えない罪から逃れることはできません。
今日の福音書では、律法を守ることがもっとも正しいことで、救いの条件だと思っていた青年がいました。でも、最後に、イエス様からすべてを捨てて私についてきなさいと言われても、彼は財産を捨てることができません。私たちもこの青年のように、財産でなくても、今失いたくないことを神様と天秤にかけ、やっぱり神様が命じておられることはできない、となるのではないでしょうか。そのことは、結局、究極は神様を信頼していない、という罪を犯していることになります。
そこで、マルコ10:25―27では、どうしても罪から逃れることが不可能な私たちに対し、イエス様が、神様はどんなことでもお出来になると言ってくださる。これはどんなに有難いことでしょうか。その前提は、ただ、イエス様の十字架による自分の罪の贖いを信じていくことだけです。しかし、十字架の救いを信じることは、人間にとって簡単なことでしょうか。そうではないですね。ではどうすればよいでしょうか。それは、今日のアモス書5:6、そして、14,15にあるように、まず「神を求めて生きる」という態度です。
そして、もう一つは、そのできないことに対して、私たちが悲しむということの重要性です。なぜなら、この悲しみに対して、神様は必ずあわれみをかけて下さるからです。
私たちが求めるのは主なる神様であり、その主のあわれみであり、愛であり、悪ではなく善です。それが必ず与えられると私たちは信じるからこそ、安心して生きることができるのです。
今日のマルコの福音書の一人の青年は、悲しんで去りました。ここで少しでも救いになるのは、彼が悲しむ姿です。ほんの少しの悲しみであっても、神様に対して感じることがあれば、神様の深い愛と恵みを知る機会が必ずあるということではないでしょうか。信仰において、私たちの人生の一瞬、一瞬に、神様は、私たちには想像できないほどの深いあわれみと愛を注いで下さっており、それぞれを豊かに祝福して下さっているのです。実に、私たちの一人一人のためにこそ、イエス様がおられます。へブル書4:14-15で言われるように、イエス様はすべての点で試みに会われ、私たちの苦しみと悲しみをすべてご存じのお方です。そのことに信頼して、辛い人生、悲しみの多い人生であっても、これからもイエス様を信じて共に歩みましょう。
(福田 学師)