「罪をおおう祈り」 2024/9/29

    マルコの福音書9章38-50節

イエス様の名を唱えて悪霊を追い出している人がいました。イエス様の名前にはそれほどすごい力があるのです。ところが12弟子の一人ヨハネはそれをやめさせました。「私たちの仲間ではないから」という理由で。ヨハネがそのことを自慢げにイエス様に報告すると、イエス様はおっしゃいました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。」(40)。なんと寛容なお方でしょう。イエス様は1人でも多くの人がイエス様の名前で悪霊を追い出すようになることを願っておられたのです。ヨハネに止められた人たちは、「二度とイエスの名を口にすまい」と思ったことでしょう。実に残念なことです。むしろヨハネは「君たち、すごいね。もっと詳しくイエス様のことを知りたくないですか?」と言うべきでした。そうすればきっと「はい、知りたいです。教えてください。」と答えたことでしょう。イエス様の名前のすごさを体験した人たちですから。このようにイエス様の真理が広まることが、イエス様の御心です。

わたしたちもヨハネのように「あっちは偽物。自分こそ本物」という分断の論理にとらわれてはいないでしょうか?そういう態度がかえって人々をイエス様から遠ざけてしまうのです。人々をつまづかせる人は、神様から裁きを受けなければなりません。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(42)。しかしわたしたちが受けるはずだった罰を、イエス様が代わりに受けてくださいました。それが十字架です。日々自分の罪を悔い改めて、イエス様の十字架と復活による救いを信じる人は、人々を分断させる人ではなく、人々と和合して暮らす人(50)になります。そしてつまづいている人のために祈る人になります。信仰による祈りは大きな力があり、病む人を回復させ、その人の罪を覆います(ヤコブ5:15、20)。人をつまづかせてしまったヨハネでしたが、のちに「愛の使徒」と呼ばれる人に変えられ、多くの「愛の手紙」を書きました。イエス様の血潮が彼の罪を覆い、仲間たちの祈りが彼を変えたのです。わたしたちも愛の人に変えられます。そのことを信じて、これからも十字架を仰ぎ見つつ、互いに祈り合っていきましょう。

(永田 令牧師)