救い主との出会いは逃がせない
「救い主との出会いは逃がせない」 2024/9/8
マルコの福音書7章24-37節
イエスさまはツロの地方(今のレバノン共和国)に行かれました。すると、悪霊につかれた娘をもつ女性がやって来てイエスさまの足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追い出してくださるよう願いました。ところがイエスさまは、「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」(27)と、なんと娘を小犬に、ユダヤ人を子どもにたとえて、女性の願いを断られたのです。イエスさまは民族で人を差別するのでしょうか?そうではありません。イエスさまがまだ十字架にかけられていないこの段階では、ユダヤ人ではない異邦人にまだ福音を語るわけにはいかなかったのです。イエスさまは十字架の上でユダヤ人、異邦人、双方の罪を引き受けて、双方の罪をゆるされました。十字架によって初めて両者を分ける隔てがなくなったのであって、それまではまだ隔てがあったのです。
イエスさまの言葉にツロの女性は答えました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」(28)。何という信仰でしょう。彼女は、自分が選ばれた人ではなく、救われる資格もないことを完全に認め、ただ神さまの憐みだけが希望のすべてだと言ったのです。神さまにすべてを委ねる信仰の表明です。これを聞いてイエスさまは「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出ていきました」(29)とおっしゃいました。異邦人である彼女が神さまの主権を完全に認めたことで、異邦人とユダヤ人の隔てが必要なくなったのです。
このころのイエスさまは、ガリラヤの群衆、パリサイ人や律法学者たち、さらにイエスさまの弟子たちさえ、一向にイエスさまが救い主であることを悟らない状況に、疲れを覚えておられました。しかし今日のツロの女性の信仰に大いに励まされて、そのあとデカポリス地方へ向かい、耳が聞こえず口がきけない人の耳と口を開かれました。天を見上げ、苦しみの声を上げながら開かれました。それによってご自分が救い主であること、しかも人々の苦しみを共有し、人々とともに天に苦しみを訴える救い主であることを示されたのです。ツロの女性がそうであったように、わたしたちもイエスさまとの出会いを逃さずに、イエス様を「自分の」救い主として受け入れましょう。自分と同じ地平に立ってくださる救い主として。
(井上 靖紹 長老)