2024/7/28 礼拝メッセージ

ヨハネの福音書6章1-14節

パリ・オリンピックが始まりました。今回のオリンピックでは食品廃棄物を極力出さないようにしているそうです。とても良いことだと思います。

今日の福音書は、イエス様がたった5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹にされたという箇所です。山の上で人々が空腹になった時、イエス様はまず弟子のピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5)とお尋ねになりました。ピリポを試されたのです。ピリポは純粋な信仰を持つ反面、合理的でないことは受け入れられない性質で「200デナリ(200万円弱)のパンでは足りません」(7)と答えました。もう1人の弟子でペテロの弟のアンデレも「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9)と、「信仰」とも「不信仰」とも思える発言をしています。わたしたち人間の信仰は、このようにとても頼りないものです。しかしそんな信仰であっても大丈夫なのです。イエス様の十字架があるからです。イエス様はすべての人の罪を背負って十字架で死んでくださり、よみがえられました。それはどんな罪人であっても、どんなに信仰が揺れ動く者であっても、イエス様の名を呼ぶだけで救われるようにするための身代わりの十字架でした。

今日の箇所に、5000人以上の人が満腹しただけでなく、12のかごがいっぱいになるほど余りが出たと書かれています(13)。つまり神様の恵みはありあまるものであり、人間の想像をはるかに越えているということです。「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)を「知る」ことができるのは、聖霊様のおかげです。「御霊(聖霊)はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです」(Ⅰコリント2:10)。このイエス様のありあまる恵みを、わたしたちはむだにしてはいけません。今日の箇所でイエス様はおっしゃいました。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい」(12)。まるでパリ・オリンピックのようですね。でもこれはただ食べ物を粗末にするなということではなく、わたしたちに与えられた賜物や能力を1つも無駄にせずに神様と人々のために使いなさいということです。そうする時、わたしたちの小さな働きは無駄になることなく、豊かな実を結ばせることになるのです。5つのパンと2匹の魚をイエス様に差し出した少年のように。

(永田 令牧師)