マタイの福音書15章21~28節

昨日は終戦記念日でした。昔の日本軍では上官の命令は絶対でした。それはイスラエルの民が、主なる神様の命令に対して、どんなことでも従わなければならないことに、表面的には少し似ています。
しかし、そこには非常に大きな違いがあります。日本軍の命令は、ほとんどが人の命を殺め、命を捨てる事であり、神様の命令は、人の命を生かし、守るということだったからです。
そして、さらに重要なことは、神様がイスラエルの民に対して、その民が分かっていなくても、神様が命じられるその根底には、民に対する深い憐みと愛があったということです。
今日のイザヤ書56:1、6-8において、神様がイスラエルの民を散らし、また集められたように、私たち個人個人にも神様がこれからどうされるか具体的にはわかりません。人生でどんなに厳しいことが起きるとしても、神様の御計画はどうなのか、私たちには知らされていません。
しかし、イエス様への信仰によって、私たちがいつか終わりの日に必ず救われることは確かなことです。この希望があるからこそ神様に服従していけます。すなわち、父なる神様に完全に服従されたイエス様にならって、イエス様の十字架の贖いを信じるという信仰を通して生きることが、必ず私たちの救いの実現に達するということです。
さらに、今日のローマ人への手紙11:1-2、29-32においても、神様がすべての人を憐れまれるということがはっきり記されます。パウロはイスラエル人として逆にクリスチャンを迫害するような者でしたが、神様に不従順であったことで今は憐れみを受けていると言います。神様の目から見ればどのような不従順があったとしても、その人を憐れまれ助けてくださいます。
では、今日のマタイの福音書のカナン人の女はどうでしょうか。15:24でイエス様が言われるように、イスラエル人が優先されているとしても、カナン人の女は必ず神様は自分を捨て置かないと信じていました。イエス様は、「主よ、私をお助けください。」と言う女に対して、「子どもたち(イスラエル人)のパンを取り上げて、小犬(カナン人)に投げてやるのは良くないことです。」と言われます。それでも彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と言い、これに対しイエス様は、彼女の娘をすぐ癒されました。どんな人間であろうとも、全面的な信仰と信頼による服従を神様は受け止めて下さいます。
私たちは、日々の苦しみに耐えきれず信仰がぐらつき、神様に対する信頼も服従することも、もう不可能だ、と思う時もきっとあるでしょう。しかし、それでも、神様がそんな弱い私たちをすぐそばで見ていてくださり、私たちが神様に気付かずに生きている一日一日を共に歩んでくださっておられる。私ごとき、小さなものを捨て去らずに憐みをかけて下さっておられる、そのことに深く感謝して、今日のこの日からまた新たな一歩を歩み始めましょう。私たちはそうできるようにと生かされているのです。(福田 学師)