マタイの福音書13章24~30節、36~43節

本日の聖書はマタイの福音書13章、「麦と毒麦のたとえ」です。
ある人が畑に良い麦の種を蒔きましたが、人々が眠っている間に敵が来てその麦畑に毒麦を蒔いていきました。毒麦は、実がなるまでは本物の麦と見分けがつかず、根も絡み合っているため、収穫まで共に育てるしかありません。こういう犯罪は当時、実際によくあったそうです。イエス様はこの身近な題材を通して、天の御国の真理を解き明かされたのです。
「毒麦」は犯罪者とかテロリストのことではありません。むしろ立派な人たちです。しかし世の終わりに毒麦は火の燃える炉に投げ込まれ、そこで「泣いて歯ぎしりする」と記されています。この「歯ぎしり」は、単なる恐怖ではなく、「自分はこんなはずではない。なぜこんな目に遭うのか?!」という激しい「悔しさ」を表してしています。本田圭佑氏のW杯の解説風に言えば、「なんでやねん?!」という、納得のいかない時の叫びです。
本来、神様が造られたこの世界は「非常に良かった」ものでした(創世記1:31)。しかし、最初は「良い麦」であった人間に、悪魔が誘惑の種を蒔き、それを最初の人間アダムとエバが受け入れてしまった結果、全人類に罪の毒が入り、すべての人間が「毒麦」となってしまったのです。この人間の罪ゆえに、すべての被造物は、人間も自然界も共にうめき、苦しんでいます。そのうめきは年々大きくなっています。もはや人間の力で治すことは出来ません。毒麦が自分の毒を消せないように。
しかし、ここに大きな救いがあります。「良い種を蒔く人」であるイエス様が地上に来てくださり、私たち「毒麦」の代わりに、火で焼かれるような苦しみを十字架で受けてくださったのです。十字架の上でイエス様は「わが神、わが神。なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。これはまさしく私たちが言うはずだった「なんでやねん?!」という叫びを、イエス様が代わりに叫んでくださった姿に他なりません。誰でも自分が毒麦だと認め、イエス様に救いを求める時、罪が赦され、聖霊様の驚くべき力によって、「毒麦」は「良い麦」へと生まれ変わります。そして神様のことを「アバ(お父ちゃん)」と呼べる者となります。「こんな罪びとの私なのに、なんでやねん?!」という喜びの叫びに変わります。この驚くべき逆転劇を感謝しましょう。神の子とされた私たちは、御国で太陽のように輝きます(43)。だから大胆に祈りましょう。多くの毒麦が良い麦に変えられるように。いま世界に満ちているうめきが、喜びの賛美に変えられるように。そして「そのために私をお用いください」と、天のお父ちゃんに祈って行こうではありませんか。 (永田 令牧師)