ヨハネ14章15~21節

使徒書17:24-25では、パウロが人々に本当の神を説明します。神様は全てを創造された何もかも完全なお方だということです。このことを人は忘れてしまっています。しかし、人は神様によって創られ、神様の中に生き、動き、存在しているのです。だからこそ私たちは、神の子として神様を求め続けます。そこで特に、私たちが神様を求め続ける時は、心も体も苦しい時ではないでしょうか。その上に、うまくいかないことを神様に責任があると訴えたりします。しかし、たとえ一時の苦しみから救いを願う祈りであっても、私たちはするべきでしょう。神様は私たちにとって父であり、母であるからです。そして私たちには神様を慕い求める気持ちがあるので,神様を賛美せずにはいられないのです。
今日の詩篇66:8-20でも、ダビデは、何度も死や破滅から救い出して下さった神様への深い感謝から賛美をしています。私たちも様々な苦しみの経験を経て、神様の戒めを守り、神様を愛していくことの大切さに気付いていきます。そうできる人は確かに神様に愛されています。しかし、ヨハネ14:21のイエス様の言葉では、私たちのように戒めを守れない人、神様を愛し続けることもできない人はどうなるのでしょうか。イエス様はそのような人も愛されているのです。なぜなら、そのような罪は誰もが犯す罪であり、そんな私たちのためにこそ、私たちの信仰を通して,イエス様の十字架の贖いによって罪が赦されたからです。
そのことがわかれば、私たちは、神様に少しでもその愛に感謝してお返ししたいと思います。Ⅰペテロ3:13-14では、人生において良いこととは、神様を愛し人々を愛することだと言いますが、自分がする実際の行動は、パウロがローマ書7:19-20で言うように、自分の気持ちに反することばかりしているでしょう。しかしそのできない私たちのことをイエス様は心の奥深い所までご存じです。だからこそ私たちは何も恐れず心配せずに,愛において生きることが薦められているのです。
そして、Ⅰペテロ3:14では、ペテロが「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。」と言います。なぜなら、イエス様は、ただ唯一の罪のないお方であるのに、Ⅰペテロ3:18で言うように、罪の苦しみを経験され、その十字架の痛みは、罪からの救いという私たちのための愛を実現する痛みだったからです。その上で、ヨハネ14:16にあるように、私たちが神様を愛することについて困難があれば、助け主、すなわち、聖霊が助けて下さることをイエス様が約束してくださいました。私たちの信仰を通して私たちに新しい命が与えられ、聖霊が吹き込まれ、ヨハネ14:20で言うように、今見えなくてもイエス様が共におられます。ですから、神様を愛していくことは最高の喜びです。今現実に誰かを愛せなくても、イエス様ご自身がその愛をもたらして下さいます。信仰を通して私たちは神様から愛され、また、神様を愛せるようにしていただいているのです。(福田 学師)