ヨハネ10章1~10節

今日の福音書は「本物の羊飼い」と「偽物の羊飼い」の違いについて教えています。「偽物の羊飼い」とは前の章に出てきたパリサイ人たちのことです。パリサイ人は、一見聖書に精通した立派な指導者に見えました。しかしイエス様は彼らを「盗人で強盗」と呼ばれました。なぜなら彼らは「自分の努力で神の戒めを守り、善を行うなら救われる」と教えたからです。一見正しく聞こえますが、聖書は「善を行う者はいない、だれ一人いない」とはっきり語っています(詩篇14:3)。「自力で善を行える」と教える者は、人々の前で天の御国を閉ざし、救いを奪う「盗人」に他なりません。
このように自力で善を行えない私たちの代わりにいのちを捨ててくださったお方こそ、本物の羊飼い、イエス・キリストです。神様の戒めをどうしても守ることが出来ない私たちのために、イエス様は十字架にかかられ、私たちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださいました。「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」と聖書に記されている通りです。イエス様という「門」を通る者だけが、永遠のいのちを豊かに得ることができ、天国の牧場で安らかに憩うことが出来るのです。
イエス様は単なる「模範者」ではありません。私たちはイエス様を「見習う」べきではなく「信じる」べきなのです。イエス様を信じるなら人は内側から変えられ、自ずとイエス様に似た者となって行きます。
使徒の働き2:42にあるように、初代教会の信徒たちは「いつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをして」いました。「使徒たちの教え」、つまり「イエスキリストを信じる者は救われる」という聖書の中心を繰り返し学び、「パンを裂き」、つまり聖餐にあずかり、共に交わり、共に祈る。…こうした基本的な歩みを教会が続ける時、私たちは本物の羊飼いの声を聞き分けることができるようになります。偽物の声を聞いても「声がちがう!」と見抜くことが出来ます。そしてどんどんイエス様に似た者、すなわち自分の持ち物を他の人のために使う者になっていきます。そういう姿に人々は感動し、イエス様の元へ集まって来るのです(使徒2:44-47)。
1947年に羊飼いの少年が死海写本を発見したことで、イザヤの十字架預言が確かにイエス様の誕生以前に書かれたものであることが証明されました。「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」(イザヤ53:5)。本物の羊飼い、イエス様の声を聞き分けながら、これからも歩んでまいりましょう。(永田 令牧師)