ヨハネ11章32~45節
主のお苦しみを覚える四旬節も終わりに近づいて来ました。本日の福音書、ヨハネによる福音書11章には、死んだラザロがイエス様によってよみがえる「ラザロの復活」の記事が記されています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は、イエス様こそ神の子キリストであると私たちが信じて、永遠のいのちを得るためでした(ヨハネ20:31)。「永遠のいのち」とは、単に時間が長く続くことではなく、イエス様/神様との生きた交わりに入ること、すなわち神様と一つのいのちになるということです。そこには地上の喜びとは全く違う「天国の喜び」があります。
イエス様は、親しいラザロが病気であると知らされても、あえて二日間その時いた場所に留まられました。ラザロの姉であるマルタとマリヤは、イエス様に「友情としての愛」(フィレオー)を期待していたのですが、イエス様は「自己犠牲の愛」(アガパオー)をもってラザロたちを愛しておられたのです。その愛ゆえに、あえてすぐに駆け付けなかったのでした。ラザロが死んで四日も経ち、もはや「完全に終わった」という絶望の中でこそイエス様の救いが明らかにされ、イエス様が本当に神の子キリストであると彼女たちが知ることが出来るようになるためです。それはちょうど旧約聖書エゼキエル書37章の「干からびた骨」の幻のようです。絶望的な状態の骨が神様の息吹によって生き返り、それによって人々は神様を知ったのでした。
ヨハネ11:35の「イエスは涙を流された」という言葉は、聖書の中で最も短い節です。この涙は、イエス様が人々の悲しみに同情した涙であるだけでなく、ご自身が十字架で父なる神様から見捨てられる絶望を、先取りされた涙でもあります。十字架の上でイエス様は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。イエス様が私たちの代わりに見捨てられてくださったからこそ、私たちは決して神様から見捨てられることはありません。ラザロを墓からよみがえらせたイエス様は、私たちの絶望をも希望に変え、涙を喜びに変えてくださるのです。「彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします」(詩篇84:6)。
43歳で天国に旅立たれた原崎百子さんは、病床で「わが涙よ、わが歌となれ」と歌いました。イエス様は私たちの苦しみの吐息さえも、主をほめたたえる賛美の歌に変えてくださるお方です。たとえ「涙の谷」を通る時であっても、イエス様の十字架の愛によって、涙が歌となる。そのことを信じて、これからも歩んでまいりましょう。(永田 令牧師)
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