ヨハネ9章1~12、35~41節
連日の暗いニュースに、私たちの心は沈みがちです。今こそ「何が主に喜ばれることなのか」(エペソ5:10)を吟味したいと思います。
今日の福音書で、弟子たちは生まれつき目の見えない人を見て、「誰が罪を犯したからか?本人か?両親か?」とイエス様に問いかけました。人の「過去」の過ちを責め立てたのです。これこそ生まれながらの人間の視点です。しかしイエス様は、「この人に神のわざが現れるため」と言われました。つまり「未来」に目を向けたのです。これがイエス様のものの見方です。イエス様を祭司長たちに売ったイスカリオテのユダは、あとで後悔して祭司長たちの所へ行きましたが、彼らは「我々の知ったことか」と言って突き放しました。もしユダが祭司長ではなくイエス様の所に行っておれば、彼はゆるされたでしょう。イエス様は過去を責めて突き放すお方ではなく、人に平安を与え、将来と希望を与えるお方なのです(エレミヤ29:11)。
目が開かれたこの人は、当初イエス様を「預言者」と言っていましたが、次第に確信を増し、最後はイエス様をキリスト(救い主)と告白し、礼拝しました。これこそ彼の上に現れた神のわざです。彼は肉体の目のみならず、魂の目が開かれました。イエス様を救い主として見る「健やかな目」が与えられました。イエス様を救い主として見る人は、全身が明るくなります(マタイ6:22)。それは「明るい性格になる」という意味ではありません。むしろ自分の心にある隠れた汚れがはっきり見えるようになり、悲しい気持ちになります。しかし、だからこそイエス様に救いを求め、イエス様の十字架によって罪がゆるされ、喜びに輝くのです。このイエス様から目を離さないこと(ヘブル12:2)。これこそ光の子どもとして歩む秘訣です。
一方、今日の箇所に出てきたパリサイ人やユダヤ人たちは、イエス様を肉眼で見ておりながら、キリストとは認めず、イエス様を信じる人を社会から追い出しました。彼らは人の過去を責める生活に留まり続けたのです。自分自身が「ゆるされる」という経験をしていないからです。しかし私たちはイエス様を信じて光の子どもとされました。人間的にはパリサイ人のような冷たさを持っていますが、そのことを自覚し、イエス様から目を離さずに生きるなら、聖霊様によって私たちの心は明るく照らされ、光の子どもとして生きることが出来ます。これからもイエス様から目を離さず、ゆるしの世界を生きて行きましょう。人の過去の罪を責めずにゆるし、未来に目を向けて行きましょう。それこそ「主に喜ばれる」生き方です。「この人を見よ/この人にぞ/こよなき愛は/現われたる/この人を見よ/この人こそ/人となりたる/ 活ける神なれ」(教会讃美歌307より)
(永田 令牧師)