マタイの福音書1章18~25節
クリスマスおめでとうございます。聖誕劇ではヨセフの扱いは決して大きくありません。しかしマタイの福音書は、ユダヤ的・男性的な視点から、イエス様誕生の物語をヨセフ中心に描いています。ヨセフがユダヤ人であり、ダビデ王の子孫であることは、旧約聖書の「メシアはダビデの家系から生まれる」といった預言(イザヤ11章ほか)の成就を証明する上で、必要不可欠な要素でした。それでマタイは福音書の冒頭に、ユダヤ人の父祖アブラハムからダビデ、そしてイエス様に至るまでの系図を書いたのです。
イエス様が真の救い主であるためには、ダビデの血筋を継ぐ「人間」であると同時に、聖霊によって処女から生まれた「神」である必要がありました。全人類の先祖であるアダムの罪を引き継がないためです。この「神と人」の両面を兼ね備えることで、イエス様は唯一、人類の罪を償い、神と人との壁を取り除くお方になれたのです。
23節の「インマヌエル(神は私たちとともにおられる)」の預言は、紀元前8世紀、神様よりもアッシリヤに頼ろうとしたアハズ王のかたくなさに対して、神様ご自身が与える奇跡の知らせでした。神様に頼らず目に見えるものに頼るという傾向は、アハズに限らず私たちにもあります。しかしそんな私たち人間を神様は見捨てず、「インマヌエル」なるお方の到来を約束してくださいました。聖なる神様と、罪ある人間が、共にいることが出来るようにするために、神様は独り子イエス様を処女マリヤから生まれさせてくださり、全人類の罪の罰として十字架につけ、人間を罪から救う道を開いてくださいました。「イエス」という名前には「主が救う」という意味があります。誰でも自分の罪を認めてイエス様を自分の救い主と信じるなら、主ご自身がその人を救い、永遠に神様と共におらせてくださいます。
マタイの福音書は、冒頭のインマヌエル預言から巻末の「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(28:20)という約束まで、一貫して「神が我らと共におられる」ということを述べています。反ナチスの牧師で、今年映画にもなったボンヘッファーが著書「共に生きる生活」で教えたように、真のキリスト教的交わりとは、単なる親睦ではなく、共に祈り御言葉を学ぶ中でキリストの十字架の愛を明確にすることです。教会に集う人々は、その愛に満たされて、他者を愛し、他者に仕えるために、世界へと派遣されます。「インマヌエル~神が共におられる」。この恵みを新たにし、互いに愛し合いながら共に生きて参りましょう。平和の道を世界に伝える為に。
「伝えよ、その福音(おとずれ)を
ひろめよ、きよきみわざを
たたえよ、声の限り」【「さやかに星はきらめき」より】
(永田 令牧師)