マタイの福音書11章2~11節
バプテスマのヨハネは獄中から弟子たちをイエス様のもとへ遣わし、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(3)、つまり「あなたは本当にキリスト(救い主)か」と尋ねさせました。キリストは「捕われ人に解放を、囚人には釈放を告げてくださる」(イザヤ書61:1)方だとヨハネは信じていましたが、自分が一向に牢屋から解放されないことや、イエス様が、新しい信仰においては断食などの律法的な考えは古い、という見方をされたことで、確信が揺らいでいたのです。
ヨハネが人々に求めた悔い改めは、罪の生き方を捨てて律法に従う正しい生き方への転換を意味しましたが、イエス様の言う悔い改めは、これまでの判断基準を捨て、救い主を自分のいのちとして新しく生まれ変わり、救い主の心に絶えず寄り添って生きる生き方への変化でした。ですから律法的な戒めとは相容れないものでした。また、救い主は本当の信仰者と偽の信仰者を麦と殻のように分け、偽の信仰者を焼き尽くす、とヨハネは理解していましたが、イエス様の教えでは、「脱穀場」は信仰者一人一人の魂であり、本当の信仰者は日々の悔い改め(脱穀)によって自分自身の殻を焼き捨てるのだ、というものだったのです。
ヨハネの問いに対し、イエス様は直接的な回答を避けつつも、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」という、イザヤが預言したキリストの御業が、今まさに起こっているという事実を報告するようヨハネの弟子たちに伝えました。そしてイエス様は群衆に対し、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(11)と、最大限にヨハネを評価しました。それは、ヨハネが「義人」と考えられていたユダヤ人にも悔い改めを迫り、罪の自覚を促すことによって、すべての人が救い主(イエス様)に出会うための道を備えた、つまり「道普請」したからです。ヨハネの働きは、旧約聖書と新約聖書をつなぎ、旧約聖書を完結させたと言えるほどの価値があります。しかしイエス様は「天の御国で一番小さい人でも、彼よりは偉大です」とも言われました。これは、天の御国への道を拓いたヨハネよりも、イエス様によって救いを受け、御国に入った人々の方が偉大であるという意味です。ヨハネの役割は、子供の成長によってその重要性が増す「養育係」に例えられます。イエス様の登場と救いによってヨハネの役割は完成し、その存在意義は高まります。ヨハネの退場とイエス様の登場。それは、時代が旧約聖書から新約聖書へ転換したことを象徴しているのです。
(井上 靖紹長老)