ルカの福音書16章1~13節
きょうの福音書はイエス様が弟子たち、つまりクリスチャンに向けて語られた「不正な管理人」のたとえ話です。このたとえ話は、主人の財産を湯水のように使い込んだ管理人が、解雇を告げられた後のわずかな猶予の間に、主人の債務者たちの負債を勝手に軽くすることで自分の将来の身の振り方を確保するという、一見すると「不正」を肯定するかのような難解な内容です。この箇所はまず現代のクリスチャンに警告を与えています。私たちがいま持っているお金、家、才能、命といったすべてのものは、神様からの預かりものであって、それを自分のためだけに「乱費」することは、今日の話の管理人と同じくらい罪深いことだという警告です。今日の旧約聖書のアモス書でも、当時のイスラエルの民が、経済的繁栄の裏で貧しい人々を搾取し、形式的に安息日を守りながら心は不正な商売に向いていたことを、預言者アモスが糾弾しています。これは、十分な食料があるにもかかわらず一部の富裕層が独占と廃棄をしている現代社会の姿と重なります。そのために今、世界の「11人に1人」が飢餓状態にあります。これは神様から預かった富を人間が乱費している結果であり、クリスチャンもこの現状に対して無頓着なのではないでしょうか?
ところが今日のたとえ話は意外な方向に展開します。主人がこの管理人を罰するのではなく、その「抜けめのない」やり方をほめたのです。これは不正そのものを推奨しているわけではありません。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(9)。永遠の住まいとは天国のことです。このたとえは天国に入る方法を教えているのです。「不正の富」とは、もともと私たちの所有物ではない「イエス・キリストのいのち」のことです。私たちは、イエス様が身代わりとなって十字架で支払ってくださったいのちという「富」を抜け目なく利用することで、神様の「友」となることが出来、永遠の住まいである天国に迎え入れられるのです。この管理人の知恵にならい、猶予があるうちに、すなわち生きている間に、イエス様を信じましょう。
イエス様を信じた者は、神様から預かった時間やお金を、もはや自分のためだけでなく、他者のために用いる者へと変えられていきます。世界全体を救うことはできなくても、目の前の一人の心を暖めるために行動するとき、そこに神の国が実現するのです。「宗教の生命は、一人に届く暖かさであって、多くの人に届く普遍性ではありません」<藤木正三>
(永田 令牧師)
