ルカの福音書12章49~56節
エレミヤ書23:23-24で語られる箇所だけでも、神様のスケールの大きさを感じます。神様が創られた宇宙は、私たちの存在する宇宙だけでも無限大の大きさであり、最近では、さらに宇宙が並行して無数に存在しているのではないかと考えられるようになりました。
このように、神様がどんなに大きくすばらしいお方かが、科学の発達によって、エレミヤ書の記述にふさわしくわかってきました。また、さらに驚くべきことは、この神様がご自分の存在を私たち人間にはっきりと現し、語り掛けてくださっていることです。エレミヤ書23:28-29で力強く人間に語られるように、神様の言葉は火であり金槌のように力強いものです。私たちは御言葉に直接信頼して良いのです。そして、へブル11:29-40、12:1-2、に記されたそれぞれの奇跡の結末は、人々の厚い信仰によって起こったことですが、これらの奇跡は、私たちがイエス・キリストによって得た罪からの救いという素晴らしい恵みの出来事には、全く匹敵しないものです。だからこそ、私たちがその恵みにふさわしく生きることの大切さが言われます。これが、イエス様が生活しておられた様に自分もイエス様に倣って生きることを目指すということです。私たちは、罪から解き放たれているのですから、罪から始まった辛いことも、苦しいことも振り捨てて、忍耐をもって、人生を走り続けようではないかというのです。
しかしながら、この世界では、私たちの心が不安や心配で一杯になり、私たちが見るべきイエス様の方から引き離してしまいます。なぜならイエス様によって、この世における様々な障害や困難があらわにされたからです。また悪を正すためのイエス様の行動からイエス様に対する反対者がはっきりし、分断が生じます。ルカ12:51-53で言うように、家庭のような小さな人間の集まりにもその分裂や苦しみが現れます。この苦しみの中で,イエス様から頂いた新しいいのちで歩むことが求められているのです。
そこで、日々大切になってくることは、大事なことを注意深く、知り、見分けるということです。ルカ12:54-56にあるように、信仰は御言葉を受け入れ、信じて生きていくことであり、その観点から何が正しいことなのかを見分けながら、具体的に生きていくことです。そのために、信仰によって聖くされ、頂いた新しいいのちを生きていくようにと、この世に押し出されているのです。そうできるようにと、イエス様が一人ひとりに代わって、私たちのために尊い犠牲となって下さったのです。一人ひとりの生き方を少しでもイエス様に倣うように近づけて行こうではありませんか。
(福田 学師)