ルカの福音書12章13~21節
きょうは平和の主日です。ヘブル語で「平和(シャローム)」とは、単に戦争のない状態のことではなく、心に安らぎと活力がみなぎっている状態を意味します。心が平和でないのは「これでは足りない、もっと、もっと!」という渇望の表れであり、この渇望によって外国の土地を奪ったり、不正で儲けたり、不倫をしたりする行動につながってしまうのです。しかしたとえこれらを手に入れても、心が安らぎや活力でみなぎることはありません。
イエス様は、遺産相続を巡る相談者の願いを断られました。彼の顔に、安らぎと活力ではなく、貪欲さを見出されたからです。「貪欲」とは原語のギリシャ語で「プレオネクシア」といい、「既に持っているのに、さらに多く持ちたい」という欲望を指します。これは神様が与えてくださった現状に満足していないということです。コロサイ人への手紙3章5節には、この「むさぼり」(プレオネクシア)がそのまま「偶像礼拝」であると記されています。偶像礼拝とは、単に異教の神々を拝むことではなく、神様ではないものを神様とすることであり、神様が与えてくださった範囲に飽き足らず、もっともっと欲しいと願う状態のことです。このような状態では、心に安らぎや活力がみなぎることはなく、周囲に平和を作り出すことも出来ません。
きょうのたとえ話(16節~)に出て来る金持ちの農夫は、すでに多くを持っていたにもかかわらず、さらに大きな倉を建てようとしました。貧しい人に施すような考えはありませんでした。そんな彼を神様は「愚か者」と呼ばれました。人のいのち(ゾーエー=永遠のいのち)は財産によっては満たされないからです。パチンコ玉を畑に蒔いても実がならないのと同じです。旧約聖書「伝道者の書」の著者が、多くの富や快楽を得たにもかかわらず「空の空、すべては空。風を追うようなものだ」と言っている通りです。
パスカルが言ったように、人間の心の空洞は、創造者である神様によってしか埋められません。それは聖霊様が心にお入りになることで実現します。自分の貪欲を認め、その身替わりで死なれたイエス様を受け入れる時、私たちは聖霊様をいただきます。この聖霊様に導かれて生きることこそ、貪欲から身を守る方法です。その人は「もっと欲しい」から「もっと与えたい」に変えられて行きます。すべてを与え尽くされたイエス様のように。わたしたちは与えることによって与えられ、心は安らぎと活力に満たされます。こうして平和を作り出す者となるのです。
(永田 令牧師)