ルカの福音書9章51~62節
明日で今年も半分が終わります。この半年を振り返ると、世界では依然として戦いが続いています。特に聖書を持つイスラエルが争いを起こしているのを見る時、私たちも自分自身の歩みを顧みる必要を感じます。
イエス様が十字架の受難のためにエルサレムへ向かう道中、最短ルートのサマリヤを通過しようとされますが、サマリヤ人たちに拒絶されます。かつては同じ民族だったユダヤ人とサマリヤ人ですが、南北分裂し、南ユダはエルサレムで、北イスラエルはゲリジム山(サマリヤにある山)で礼拝するようになったり、北イスラエルを征服したアッシリア人とユダヤ人との間に生まれたのがサマリヤ人であること等から、両者の間に強い差別意識があったのです。サマリヤ人から拒絶された時、イエス様の弟子であるヤコブとヨハネは「天から火を呼び下してサマリヤ人を滅ぼそう」とイエス様に提案しました。もともと「雷の子」と呼ばれた気性の激しい人たちではありましたが、3年間イエス様から学び、「敵を愛しなさい」という教えも受けていたはずです。それなのに一向に成長していなかったのでした。これはクリスチャンへの警告とも言えます。たとえ信仰があっても、たとえ聖書を学んでいても、人を裁いたり、怒りをぶつけたりすることがあるのです。
現代の世界の為政者を見る時、敵への攻撃を正当化するために聖書の言葉を都合よく引用する姿を見ます。しかし聖書の言う「勝利」とは、外国に対する勝利ではなく、自分の罪に対する勝利です。そのためにイエス様は十字架で死んでよみがえられました。私たちが悔い改めてイエス様の十字架の前にひれ伏す時、聖霊様の導きによって、私たちは敵対する相手にさえ親切に接することが出来るようになります。ルカ10章の「善きサマリヤ人」のたとえ話のように。
ガラテヤ5章の「不品行、憤り、分裂」などの「肉の行い」は、私たちを互いに噛み合わせ、共食いさせます。しかしイエス様は私たちを罪から解放し、自由にします。それは自分のための自由ではなく、「愛をもって互いに仕える」ための自由です。人間の力では真の愛や平和は生まれませんが、「御霊の実」(愛、喜び、平安、寛容、親切など)は、自分ではなく聖霊様が自然に実らせるものであり、御言葉や聖餐や交わりによって実ります。そんな愛や喜びや平安に満ちた「神の国」を、言葉や行いによって周囲に広めること、それが、家族や周囲に一番の幸せをもたらす道なのです。
(永田 令牧師)