ヨハネの福音書14章8~17節

きょうの聖書箇所は、福音書における重要な出来事である最後の晩餐の場面です。最後の晩餐は、イスラエルがエジプトでの奴隷状態から解放された出来事を記念する過ぎ越しの祭りの食事でした。この祭りでは、門柱に羊の血を塗った家は神様の罰が過ぎ越されたという出来事にちなんで種なしパンを食べます。イエス様は、この過ぎ越しの食事の場で、新たな、真実の過ぎ越しを始めようとされていました。それは、旧約の過ぎ越しが門の血で神様の罰から逃れたように、イエス様ご自身が十字架で血を流すことによって、私たちが罪の罰を受けずに済むようにするというものです。イエス様は私たちの代わりに罰を受け、むごたらしく殺されました。これは、神様の小羊であるイエス様の血による罪の赦しの型でした。この出来事以降、過ぎ越しの食事は聖餐式に置き換わりました。最後の晩餐は、最後の過ぎ越しであると同時に、最初の聖餐式でもあったのです。

この新しい過ぎ越しの大前提は、イエス様と神様が一つであることです。イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのです」と語り、イエス様の言葉や存在そのものが、父なる神様からの働きかけであり、神様の愛であることを示されました。イエス様は神様そのものであり、イエス様のわざは神様のわざです。

罪とは、自分自身を神とすることです。自分が中心であり、神様の言葉を認めないこの態度は、本当の神様との根本的な断絶を生み、魂の死へと至ります。罪からの救いは神様に立ち返ることですが、罪の性質ゆえに人は自力で立ち返ることができません。しかしイエス様が十字架で私たちの罪の罰を受けてくださったことを信じる時、その人は自分の罪を認識します。その人の中にはイエス様がおられ、罪を憎み、人を愛するようになります。イエス様の名によって求めるものは何でも与えられ、イエス様のわざを行い、イエス様の戒めを守ることができるようになります。

しかし、私たち人間はまだ罪の性質を残しているため、神様と結び合わされる中で葛藤が生じます。そこでイエス様は、もう一人の助け主である聖霊を与えると約束してくださいました。聖霊は信じる者とともに住み、イエス様の言葉やわざ、イエス様の愛、そしてイエス様が共にいることを常に思い出させてくださいます。イエス様は私たちを神様としっかりとつなぎ留め、内なる葛藤に勝利させてくださいます。キリストは、信じる者を強引に神様と結びつけるアンカーボルトのような存在であり、キリストを信じた者は、どんなにつながらない者であっても神様とつながっているのです。

(井上 靖紹長老)