ヨハネの福音書20章19-31節
今、わたしたちは「日曜日」に礼拝しています。しかし旧約聖書の時代は安息日である「土曜日」に礼拝していました(今でもユダヤ教徒は土曜日に礼拝しています)。それがなぜ日曜日になったのかというと、イエス様が復活されたのが日曜日、つまり「週の初めの日」(19)だったからです。その日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて部屋の戸を閉め、鍵をかけていました。しかしそこにイエス様が入って来られました。幽霊ではありません。手やわき腹の傷が示す通り、ちゃんと肉体がありました。これは科学で説明することは出来ません。しかし最初は復活を信じていなかった弟子たちが、ある時点で急変し、処刑も恐れずイエス様の復活を伝えるようになったこと自体、大きな奇跡ではないでしょうか?
部屋に入って来られたイエス様は、弟子たちの不信仰を責めたりせず、「平安があなたがたにあるように」(19)とおっしゃいました。それはこの世が与える平安ではなく「赦し」という平安です。「あなたの罪は赦された。わたしはあなたを罰しない」という平安です。イエス様の傷跡がそのことを示しています。「平安があなたがたにあるように」と言いながらイエス様は手とわき腹の傷を弟子たちに見せました。それを見て弟子たちは喜びました。「このイエス様の傷は、私の罪を赦すためだったのだ。何度もイエス様を裏切り、自分中心に生きている私の代わりに、イエス様が十字架にかかり、十字架で死んで、よみがえられた。そのおかげで私は赦され、私は救われたんだ。」そのことがわかった喜びと平安です。聖書は読む人にこの喜びを与えるために書かれました。聖書を信じることによって私たちは、たとえ肉眼でイエス様を見ていなくても、弟子たちと同じ喜びを持つことが出来ます。しかしそれはただ自分だけが喜ぶためではなく、今度は、赦された私たち自身が人を赦すことによって、イエス様の赦しを人々に示すためです。そのためにわたしたちに聖霊様が与えられました。自分の感情に従って、人を赦さずにいるなら、相手は赦される喜びを体験できません。しかし聖霊様によって相手を赦す時、そこに喜びと平安があります。これこそ教会のあるべき姿であり、これこそ私たちがとどまるべき「ホーム」なのです。
(永田 令牧師)