ルカの福音書19章28-40節
本日の箇所は、イエス様が十字架につかれるためにエルサレムに入城される場面です。福音書のクライマックスが始まる場面と言えます。エルサレムの手前の村でイエス様は、つないであるロバの子をほどいて連れてくるよう弟子たちに命じて言われました。「もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」(31)。“それで持ち主が承知するのか?”という気がしますが、持ち主は支障なく渡してくれました。イエス様を「主」、つまり「神のキリスト」と信じていたからです。「自分たちは一時的にこのロバの使用権を得ているだけであり、本当の所有者は永久に神様である」というのがユダヤ人の理解でした。この村の村人たちも、イエス様の弟子たち同様「イエスはキリスト」という信仰には至っていたのです。しかし本当に大事なのは次の段階、すなわち「そのキリストとは、人々を支配するために来れられるのではなく、人々がそれぞれの罪から救われるために十字架にかかって贖いをされる方だ」という信仰です。
イエス様はロバの子に乗って、子供のような、仕える者の姿でエルサレムに入られました。人々はそれを歓迎しましたが、イエス様がなぜ仕える者の姿でいるのか、それでも王なのはなぜなのか、キリストが来られる本当の理由は何なのかを、まだ知りませんでした。そのため、キリストであるイエス様が十字架につけられるとき、意味が分からず、混乱して散ってしまいました。しかし、キリストは人の罪をあがなうために十字架につけられ、死んだ後に復活して、キリストにつながる人に罪の赦しを与え、天国への道を開くのだということを悟った人々こそが、本当に群れを成して、イエス様とともに天国に至る行進を行うことでしょう。このようにしてイエス様の弟子たちが群れとなって起こり、賛美の波が世界中で起こるようになることを、イエス様は願っておられます。たとえ世界の権力が力づくで迫っても、その賛美を誰も止めることはできません。弟子たちの群れ、それは、罪によって滅びるしかない運命の中から立ち上がって、まずイエスさまを受け入れ、次にイエスさまの十字架の贖いによる救いを受け入れて、天国に至る人々の群れです。私たちもこの群れにとどまりましょう。
(井上 靖紹長老)