ルカの福音書13章31-35節

ある日パリサイ人たちがイエス様に「ガリラヤを出なさい。国主ヘロデがあなたを殺そうとしている。」と言いました。一見イエス様を助けようとしているようですが、ただイエス様が邪魔なので追い出そうとしただけでした。パリサイ人もヘロデも、イエス様を排除しようとしている点で同じです。イエス様は彼らのことを「めんどりがひなを翼の下にかばうように何度も集めようとした」のですが、彼らはそれを好まなかったのです(34)。「イエス様を排除する」というのは、ただイエス様を憎んだり嫌ったり無視したりすることだけを言うのではありません。「イエス様、大好きです!」「イエス様は偉大です!」と言いながら、じつは排除しているということもあります。それはイエス様の「十字架」を無視している場合です。「イエスの奇跡に驚いた」「イエスのやさしさに癒された」「キリストの教えは人生訓になる」…そういう人は多いです。しかしそれだけならイエス様の十字架を排除しています。大事なことは「わたしの中にも罪の闇がある。いつも自分中心に生きている。でもこんなわたしのためにキリストは死んでくださり、よみがえられた。それによってわたしの罪はゆるされたのだ。」ということを信じて心に平安をいただくことです。これこそイエス様が望んでおられる道であり、イエス様の翼の下で守られた生き方です。

使徒パウロはピリピ教会の信徒たちに「私を見ならう者になってください」と書き送りました(ピリピ3:17)。パウロは自分の伝道熱心とか隣人愛を見習えと言っているのではありません。「私のように、ただイエス様の十字架だけに依り頼む者になりなさい」ということです。人は「イエス様を信じ、さらに良い行いをすれば救われる」のではなく、ただイエス様を信じるだけで救われます。なぜならわたしたちの罪はすべて、イエス様の十字架と復活によって清められているからです。人間の救いの契約は、神様と人間の両者によって結ばれたのではなく、神様が一方的に結んでくださいました(創世記15:17)。イエス様の犠牲によってです。だからどんなに失敗しても、信仰が揺れ動いても、十字架を仰ぎ見れば大丈夫です。その人はイエス様の翼の下で守られています。十字架を排除する人は主の宮(自分の心)を荒らす人です。十字架に信頼する人こそ主の宮を整える人なのです。

(永田 令牧師)