ルカの福音書4章1-13節

全く傷つかない人生は、誰もが願いながらも存在しません。なぜなら、人は一人では生きられず、社会の中、人間の集まりの中で必ずぶつかり合って傷つくからです。そもそもこの世界を素晴らしいものとして神様が創ってくださったのに、その世界を悲惨なものに打ち砕き、人生をみじめにしているのは人間自身です。それでも救いのみ手をさし伸べてくださるのが主なる神様です。人間が神様に感謝し、従順に生きることが大切なのは当然でしょう。でも、どうしても人間は神様に従順に生きられません。
私たちは、何かがうまくいけば自分の努力のおかげであり、うまくいかなければ神様が助けてくれなかったからと言うのです。このような自己中心性は誰もが持っている部分です。 では、イエス様はどうでしょうか。イエス様は神様の御子であり、罪を全く犯してはいないのに、今日のルカの箇所のように、悪魔の試みに会われました。しかし、イエス様は、その不条理をご自分にとって必要だと思われ、受け止められました。
それは誰のためでしょうか。ここにいる私たち一人一人のためではないでしょうか。イエス様が不条理な状況に放り出され、この不条理を受け取って下さり、悪魔の試みにすべて反論されたことが、ここにいる私たちに、そして、すべての人間に関係しているのです。 人はパンだけで生きるのではなく、私たちが神様のみ言葉、すなわち、神様を中心にして、神様に信頼して生きることが大切だということです。 また、権力や様々な欲望を満たすために主なる神様以外の悪魔や偶像に仕えてはならないのは、主だけが私たちの神様だからです。そして、私たちが人生の困難な時、悪魔の試みのような状況に出会うことがあるとしても、主なる神様こそが、私たちの創造主であると神様に心からの信頼をお捧げして、試練を受け止めるのです。そのような時さえ、神様が助け導いて下さいます。ですから、私たちが歩む試練の道は、希望のある道です。イエス様がともにおられ、歩み方を示し、慰めてくださるからです。
でも、人生の意味が全く判らなくなる時もあるでしょう。わからないそのままでいいのです。ただひたすら信仰において神様にお任せし、不条理に見える人生の道も、必ず主において恵みの道へと変えられていくことを信じましょう。私たちのこの苦難の道は、イエス様がすでに歩まれ、十字架で勝利された道です。私たちの道はすでにイエス様によって標識が与えられ導かれていくのです。 たとえ素直に、従順に神様を信じられなくても、必ず私たちの苦しみの時にこそ、ともにいてくださる主を信じられるように、御手を差し伸べてくださいます。そのことを今、私たちが知らされていることが大きな恵みです。私たちが今まで歩んできた人生を神様に感謝を持って受け止め、今日からの日々も神様に信頼して歩み続けたいと思います。

(福田 学師)