ルカの福音書9章28-36節
3月、4月と言えばイエス様の受難と復活の季節です。このイエス様の受難と密接に関係しているのがきょうの「変容」、つまりイエス様の姿が山の上で真っ白に輝いたという出来事です。十字架と復活こそ、イエス様の栄光の姿だということです。
イエス様の変容の直接のきっかけはイエス様の「お祈り」でした。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」(29)。これはイエス様だけに言えることではありません。神様の子どもとされたわたしたちの祈りも、神様にはかぐわしい香り(黙示録5:8)であり、祈るわたしたちを、神様は見えない光で輝かせてくださるのです。
光り輝くイエス様の前に「モーセとエリヤ」が現れました。どちらも旧約聖書の人物で、ずっと昔に死んだはずの人たちです。その人たちが現れてイエス様と話していたということは、「死は終わりではない。彼らは天国で生きている。」ということです。しかし天国は一度も罪を犯したことのない清い人しか入れない所です。でもそんな人は一人もいません。モーセもエリヤもわたしたちと同じ罪びとでした。モーセは一度神様の命令に背いたために、約束の地に入れませんでした。エリヤも神様からいただいた力で、多くの人の命を奪いました。そんな彼らが天国で生きていた。それは、まだ生まれていないイエス・キリストを信仰の目で仰ぎ見て、罪の赦しをいただいていたからです。モーセとエリヤが今日イエス様と話していた内容は、イエス様の「最期」についてでした(31)。この「最期」という言葉は「脱出」とも訳せます。イエス様の十字架と復活こそ、罪びとを罪の中から「脱出」させ、天国で永遠に生きることが出来るようにするためでした。これがイエス様の栄光です。わたしたちも信仰の目でイエス様を仰ぎ見る時、天国が与えられ、永遠のいのちが与えられ、さらに聖霊様の働きによって、人をゆるし、喜んで親切にし、良いことをすることが出来るようになります。周りの人々がイエス様と出会うためです。そしてわたしたち自身は「フェードアウト」するのです。モーセとエリヤが消え、イエス様だけが立っていたように。でもそれは寂しいフェードアウトではありません。輝かしいフェードアウトです。イエス様が輝けば輝くほど、その輝きでわたしたちも輝くのですから。
(永田 令牧師)