ルカの福音書6章27-38節
イエス様は「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者に善を行いなさい」(27)等の言葉を語られました。これとほぼ同じ説教がマタイ5章にもありますが、それはイエス様が山の上で語られたので「山上の説教」と呼ばれています。しかし今日の箇所はイエス様が山から下りて語られたものなので「平地の説教」と呼ばれています。何が違うのでしょうか?「山の上」というのは普段の生活の場ではなく、やや「浮世離れ」したイメージがあります。一方「平地」は人々が日常の暮らしをしている場所です。そのように「山上の説教」には少し観念的な要素があり、「平地の説教」は具体的な言葉で私たちに迫ってきます。たとえば冒頭の「あなたの敵を愛し、あなたを憎む者に善を行いなさい。」は、「山上」では「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」になっています。これなら何となく出来そうな気がします。しかし「平地」では「あなたを憎む者に善を行いなさい。」と、実際に行動するよう命じています。具体的に、鋭く迫ってくるのです。
今日の箇所は、かつてモーセが「山の上」で神様から律法(神の国のルール)を授かり、それを「山を下りて」イスラエルの民に伝えたことを思い出させます。民にとって、それはあまりにも手の届かない教えであり、モーセの顔が輝いて近づけなかったと書かれています(出エジプト34章)。これが神の国の輝きです。それは地上を生きるわたしたちにとってあまりにも気高く、まぶしく、近づけない世界なのです。しかしそんなわたしたちの住む地上の世界にイエス様は降りてきてくださいました。山の上よりもっと高い「天の上」から、平地よりもっと低い「十字架の死」にまで降りてきてくださいました。山上や平地の説教で描かれている完璧な人、それはイエス様ご自身です。これらの説教は「イエス様の自画像」です。しかしそのイエス様が十字架で処刑された。それは律法を守れない人間の身代わりの死でした。イエス様を救い主と信じる人は、罪が赦され、イエス様に似た者になっていきます。よみがえられたイエス様ご自身がその人の中に入られるからです。わたしたちも「山の上」の教会から「平地」に戻ったら、小さなイエス様として人々に善を行って参りましょう。たとえ相手が自分を憎む人であっても。その時、人々はあなたの中にイエス様を見、神の国を見ることでしょう。
(永田 令牧師)