ヨハネの福音書2章1-11節

きょうの聖書は、ガリラヤのカナという村で行われた結婚式でぶどう酒がなくなってしまい、イエス様が水をぶどう酒に変えて窮地を脱した、という出来事です。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11)。「最初の」というのは「時間的に最初」というより「根源的な」「本質的な」という意味です。「しるし」というのは「奇跡」というより「目印」「証拠」という意味です。つまり今日の出来事は、イエス様が誰であるかを示す「根源的な証拠」だということです。すなわち、十字架で血を流して死ぬことによって罪ある者を天国に入れてくださるお方だということです。聖書で「結婚式」といえば、ほとんど「天国」を指しています。天国とは神様との結婚です。神様と人が結ばれ、いつまでも一緒にいることです。どんな時も神様が祈りを聞いてくださり、祈りをかなえてくださることです。天国はただ死んでから行く所ではありません。地上に居ながらにして神様が共にいてくださる状態のことです。しかしすべての人は罪があるため、そのままでは神様と共にいることが出来ません。その人間の罪を取り除き、神様と共にいることができるようにするために、イエス様は地上に来てくださいました。そしてすべての人間の罪を背負って身代わりに十字架で死なれ、よみがえられました。このイエス様を自分の救い主として信じて洗礼を受ける人は、罪がゆるされ、神様の花嫁として永遠の喜びと平安の中で生きることが出来ます。

今日の箇所に出てきた「水」は、ユダヤ人のしきたりで手を清めるためのものです。しかし「しきたり」や「人間の行い」では、誰も天国に行けません。ただ十字架で流されたイエス様の血、すなわちぶどう酒だけが神様との結婚を、つまり天国を実現します。「水とぶどう酒」、それは「律法と福音」です。律法(人間の行い)では神様との結婚は成立せず、ただ福音(イエス様を信じる信仰)によってのみ、神様との結婚が実現するのです。きょうの出来事はそのことの「証拠」です。人間の愛には限りがある。けれども神様の愛は無限です。無限の愛でご自分の「花嫁」を愛してくださいます。そこに永遠の喜びがあるのです。

(永田 令牧師)