マルコの福音書12章38-44節

詩篇118:8-9では、誰に頼るよりも主に身を避ける、すなわち、主に信頼していくことがよいことであると言います。お金ならどうでしょうか。しかし、お金というものは、先月のマタイの福音書にあるように、人間の欲望と繋がれば、その人は天国の門を通れなくなってしまうものです。では、   人の助けもお金もあるのに、苦しみのあまり自殺してしまうような人がいるのはなぜでしょう。しかし、このような時でさえ、私たちには、たった一つの救いの手が常にあります。それは、この世に唯一の主なる神様がおられるということです。そして、幸いなことに、私たちは、日々、礼拝を通し、     み言葉を通して、この神様の存在を知らされているのです。

今日の旧約聖書のⅠ列王記では、やもめは絶望のさなかにあったがゆえに、エリヤの言うことがただ一つの希望として見えてきて、神様の言われることを信頼してみようと思いなおします。そして、確かにこの希望、生きることが可能となる希望が実現しました。神様への信頼がすべてをよい方向に変えていったのです。また、今日の詩篇146:1―2で言うのは、いのちのある限り、主をほめたたえて生きていくこと、これが絶対的に私たちを強くしていくということです。そして、次の詩篇146:3―4では、どんな人間でも土に還ってしまう「ちり」であり、人間自身こそ、まったく頼れるものではないと言います。これは事実ですが、私たちは主に頼ることができるのです。主なる神様が私たちに対して、様々に、神様のおられるしるし、   そして、神様のご意思を色々な形に私たちに示してくださっているのです。その中で私たちに与えられているみ言葉が最も大切なものです。

そして、もう一つ大切なことは、神様を信頼することにおいては、私たちが偽善者であってはならないということです。今日の中心のマルコの福音書(12:38―40)でも、偽善者の一つの例がありました。一方で、今日のマルコの福音書(12:41―44)に出てくるやもめは、彼女の絶望的な状況の中で、ただ、神様に委ねることしかできず、神様に全くすべてをお任せし、頼り切っていた人だったのです。

私たちの内面にも、表面的には見えないけれども、神様には決して隠すことのできない醜いものがあります。それに私たちが気づいた時、この卑しい自分を、ご自分のいのちを引き換えにして救ってくださったイエス様に、心から感謝する他ありません。私たちは神様から驚くほどの深く大きな恵みを頂いているのです。最後の終末の時まで続いていく、神様の深い愛による永遠のいのちの希望が常に共にあることに感謝して、どのような絶望の淵にあっても,神様にとことん信頼して生きようではありませんか。

(福田 学師)