「いのちのパンで生きる」 2024/8/11

ヨハネの福音書6章35、41-51節

生きる目的や意味を考える時、人はどんな状況でも、生きることが一人ではできません。私たちが生きる意味も、たった一人で決めることはできないのです。どんな人間でも、無数の人間の命と生き物の命がつながっており、聖書の創世記に記されているように、神様が創造の最後に、人間としての「いのち」を創造してアダムに与えて下さいました。また信仰において、すべての意味に先立ち一番上に立っている重要な意味があります。その意味こそ、神様が私たちをその深い愛において創ってくださり、そのままに愛してくださり、そして、さらには罪を犯したすべての人間をその罪から救い、赦してくださったほどの価値が私たち人間にはあるということです。

そして、神様の愛は、決して、抽象的で観念的な意味の愛ではなく、具体的に私たちが生きていく一瞬一瞬にかかわっています。Ⅰ列王記でも、預言者エリヤは、戦う力が尽きた状態でしたが、御使いがエリヤの元に食べ物を置いてくれます。

同じように、私たちの日々の生活においても、神様が私たちに対して、いつも色々な形で励ましたり、叱ったり、支えたりしてくださっています。なぜなら神様は、一切、どんな人間であっても差別されるお方ではなく、ご自分がお創りになったすべての人間が素晴らしく価値あるものだからです。また一方では、全ての人が同じ罪びとですが、エリヤに比べれば私たちの値打ちが低い、ということではありません。神様は無限の愛をそれぞれの人間に注ぎ続けてくださり、父なる神様が与えて下さったイエス様の具体的な愛の行動が、私たちを罪から救い出して下さいました。

今日のヨハネの6:41-42の箇所では、回りのユダヤ人は神の御子としてのイエス様の真の姿は見えなくなっています。これに対し、イエス様は真実を語られます。父なる神様が私たちにイエス様への信仰を与えて下さり、信仰により私たちに一方的に永遠のいのちの約束を下さいました。その永遠のいのちはイエス様の十字架の犠牲を信じることで与えられます。このことを、イエス様は、ご自身がいのちのパンであると言われるのです。その意味こそ、私たちが想像できないほどの深い愛をもって、神様が一人ひとりを大切にしてくださっているという事実です。イエス様というパンを頂いて、私たちは生かされています。この世でどんなことがあっても大切な存在としてこの世に生み出されています。そして、信仰において、日々、イエス様の御言葉を生きる糧、魂のパンとしていただき、永遠のいのちの約束が終りの日に成就することを望みながら、希望に満ちて歩んで行くのです。

(福田 学師)