われわれの主イエス・キリストにある、恵みと、あわれみと、平和があるように。
私をして、しいて、このような小さくて、単純、平明なかたちで、この「教理問答」もしくは、「キリスト教の教え」をまとめさせたのは、最近私が、視察官として、巡視したときに目撃した、悲惨な、言いようのない、危急の状況であった。愛する神よ、助けたまえ、私は、何という多くの悲惨を見たことであろうか。一般の人々は、特に村落においては、全くキリスト教の教えについて無知であるし、さらに、悲しむべきことには、多くの牧師たちのほとんどが教える能力なく不適格者である。彼らは洗礼を受け、聖礼典にあずかり、キリスト者と呼ばれていながら、「主の祈り」も「使徒信条」も「十戒」も知らず、あたかも愛すべき家畜、愚かな豚のごとくに生きている。そこに福音がきているのに、彼らはすべての自由を、巧妙に悪用することしか知らない。ああ、あなたがた、司教たちよ、あなたがたは、人々をかくも恥ずべき状態に捨ておき、あなたがたの聖なるつとめを、つかの間も省みないで、いったいキリストに何と答えようというのか。ああ、すべての刑罰があなたがたの上にふりかからないように! あなたがたは、ひとつの形(聖餐における杯)を禁じ、あなたがた自身の、人間のおきてを守るべきことを彼らに要求しながら、彼らに、「主の祈り」「使徒信条」または「十戒」を、あるいは、神のことばの何かを知らせようとは、少しもつとめようとしない。ああ、あなたがたは永遠に裸である。
このゆえに、私は、私の愛する兄弟たち、牧師、説教者であるあなたがたに、神のために、あなたがたが、心からあなたがたの職務に励み、あなたがたに託された民をあわれみ、われわれを助けて、この教理問答を、人々に、特に若い人々に教えていただきたいと願う。もしあなたがたの中で、十分な能力を持たない人がいるならば、その短文と様式とを採用し、人々には一語一語次のように教えてほしい。すなわち-
第一に、説教者に大事なことは、「十戒」「主の祈り」「使徒信条」「聖礼典」などに関する、種々雑多な本文やかたちを警戒し、これを避けることである。むしろ反対に、一定のかたちを採用し、これを守り、毎年同一のものをいつも用いるべきである。というのは、若い、経験の浅い者は、一定の本文とかたちとで教えるべきであり、もしそうしないで、今日のように、一年中、時としてはこのように教え、ある時は修正してかのように教えるならば、容易に彼らをつまずかせ、あらゆる労苦と勤勉とをむだにしてしまうであろう。このことは、愛する教父たちもまたよく知っていたところであり、「主の祈り」「使徒信条」「十戒」などすべてを、同一の方法で使用してきた。したがって、われわれもまた、若い、単純な人々を教えるにあたって、一字も狂わすことなく、また、年ごとに違ったことを覚えさせたり、語らせたりしないように、注意しなければならない。ゆえに、あなたがたのために、自分の欲するひとつのかたちを選び、これを長く守るべきである。しかし、もしあなたがた学者や知性のある人々に説教するときには、あなたの学識をかたむけ、できるだけ多彩に、巧みにやるのもよかろう。しかし、若い人々に対しては、一定の、永続的なかたちと方法を守り、まず何よりもさきに、「十戒」「使徒信条」「主の祈り」などを、本文に従って一語一語、彼らが復唱することができ、暗記するようになるまで、教えこまねばならない。
しかし、あなたの教えを受けようとしない者があるならば、その人々は、キリストを否定するものであり、キリスト者ではないことを告げ、聖礼典にあずかることも、小児洗礼に立ち会うことも、またキリスト教的ないかなる特権を使用することもさせてはならない。むしろ、当然のこととして教皇とその教会裁治官らに、ついには悪魔自身に、引き渡されるべきである。さらに、両親や家長は彼らに食わせても飲ませてもならない。そして、このような粗暴な人々を、この領土から追放するように君主に訴えるがよい。
もちろん、何ぴとをも、信仰に強制することはできないし、またするべきでもない。しかし、彼らが住む場所で、また共に生活する人々の間で、何が正であり、何が不正であるかを、大衆が知るようにさせなければならない。なぜなら、一つの町に住みたいと思う者は、神を信じていようと、いまいと、内心では悪党であり、奸物であったとしても、彼が利益を受けようとするところの、国のおきてを知り守らねばならないからである。
第二に、もし彼らが、本文によく通じたならば、さらに本文が明らかにしている内容を知るために、その意味を、教えなさい。またこの短文の方法、あるいはあなたが欲するところの、短い一定の方法を採用するにしても、本文に関しては上述したように、それを守り、ただの一綴りたりとも乱してはならない。さらに時間をかけるがよい。というのは、必要なことは全部を一度に取り上げることではなくて、むしろ一つ一つ取り上げることである。第一の戒めを十分に理解した後に、第二の戒めに、さらに次へと進みなさい。そうでないと、教えが過剰になり、かえってただの一つも得ることができなくなるであろう。
第三に、この短い教理問答を、教え終わったら、次にはあなたがたのために、「大教理問答」を用いて、彼らにより豊かな、広範な理解を与えなさい。そこには、あらゆる戒め、祈願、個々の信条が、その多様な行為や利益や、敬虔、危険、害などとともに示されている。それはあなたが、これらのことに関して書かれた、おびただしい小冊子の中に、これらすべてのことを、豊かに見いだすとおりである。また、人々にとって最も多く適用されることが必要な、「戒め」や「個々の信条」を特に強調しなさい。たとえば、盗みに関する第七戒は、手工業者や商人の間に、否、農民や召使いたちにも、あなたは、極力強調しなければならない。というのは、この人々の間には、多くの不真実があり、盗みが多いからである。同様に、第四戒は、子どもたちと、一般の人々に彼らが温順であり、誠実、従順、平和であるために、神が罰し、または祝福してくださった人々を、いつでも聖書から、多くの例証を引き出して、教えねばならない。
また、権力者と両親とには、彼らがよく治め、子どもを学校に行かせることに努力することは彼らの責任であることを指示し、彼らがそれをしない時には、呪われるべき罪を犯すことだということを知らせなさい。というのは、彼らは、それによって神と人との、最大の敵として、神の国と、この世の国とを、ともに破壊し、荒らすからである。また彼らが、子どもたちを助けて、牧師、説教者、著述家等になるようにしむけないならば、いかにそれは、おどろくべき損害であるかを、また、神は、彼らをそれゆえに、きびしく罰されることを、はっきりと示すべきである。ゆえに、ここに説教することの必要がある。両親や権力者が、語ることをしないならば、彼らは罪を犯しており、悪魔もまた、残忍なことを、その時もくろんでいるのである。
最後に、彼らは、教皇の圧制が取り去られたので、聖礼典にあずかることをきらい、これを軽んじている。この点について次のことを強調することが必要である。すなわち手段をろうして何ぴとをも信仰や聖礼典に、強制することはできないし、また、いかなる規定も、時も、場所も決めるべきではないが、われわれの規定がなくとも、全く自発的に、われわれ牧師に、聖礼典を執行するように、強く求めるにいたるまで説教すべきである。人々をして、このようにさせるためには、次のように言わねばならない。すなわち聖礼典を求めない人々、少なくとも年に一回ないし四回すら欲しないならば、それは聖礼典を軽視することであり、またキリスト者ではないということを、深く考えるべきである。それは福音を信ぜず、聞かない者が、キリスト者ではないのと同様である。なぜならキリストは「これを捨てよ」とも、「これを軽んぜよ」とも語られなかった。そうではなく、「飲むたびにこれを行なえ…」と語られたのである。彼はその実行を真実望まれたし、またこれをいささかでもゆるがせにしたり、軽んじたりするのをおきらいであった。彼は「これを行なえ」と言われるのである。
聖礼典を尊重しない者は、彼が罪も、肉も、悪魔も、この世も、死も、危険も、地獄も、持たないことをしるしとしている。すなわち、彼は耳の上までその中に沈んでいるのに、そのことを信じないのである。そして彼は二重に悪魔のものなのだ。反対に、彼は、いかなる恵みも、生命も、楽園も、天国も、キリストも、神も、何らかの善をも必要としない。というのはもし彼が、いかに多くの悪を持ち、またいかに多くの恵みを必要としているかを信じていたときには、そのような悪から守り、恵みを与える聖礼典を、けっして捨てはしなかったはずだからである。人をして、強制的に、いかなる規定をもってしても、聖礼典にあずからせてはならないが、そうでなくて彼自身かけつけ、すすんであなたのもとに来、あなたをして、聖礼典を与えざるをえないようにしなければならない。
このゆえに、あなたは、ここでは教皇がしたような、いかなる規定も設定すべきではなく、ただこの聖礼典における効用と損失、欠乏と利益、危険と救いとを教えればよい。そうすればあなたが強制しなくても来るようになるだろうし、もし来ないならば、そのおもむくにまかせなさい。そして彼らが自己の困窮と、神の恵み深い助けとを注意することもせず、また感じることもしないならば、彼らは悪魔のものであることを告げなさい。しかし、もしあなたがそのように教えることなく、あるいはそこから規定と害毒とを作り出すならば、彼らが聖礼典を軽んじるのは、あなたの責任である。あなたが眠り沈黙しているならば、どのようにして彼らは怠惰でないことができようか。それゆえ、牧師、説教者たちよ、このことを考えなさい。今や、われわれの職責は、教皇のもとにあった時とは異なるものとなり、まじめな、有益なものとなっている。このゆえに、今や多くの困難と労苦、危険と攻撃とがあり、この世においては、感謝と報いとは少なくなってくるであろう。しかし、キリストがみずからわれわれの報いとなろうとしておられる。それゆえわれわれは忠実に働くのである。すべての恵みの父が、われわれを助けてくださるように。われわれの主キリストによって、讃美と感謝とが、永遠に彼にあるように。アーメン。
発 行:西日本福音ルーテル教会・ビジョン21委員会