アモス 8:11 見よ、その日が来ればと 主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
8:12 人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはできない。
8:13 その日には、美しいおとめも力強い若者も 渇きのために気を失う。
詩篇 22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく 主にひれ伏し 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。
使徒 8:9 ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。
8:10 それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。
8:11 人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。
8:12 しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。
8:13 シモン自身も信じて洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた。
8:14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。
8:15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。
8:16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。
8:17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 シモンは、使徒たちが手を置くことで、”霊”が与えられるのを見、金を持って来て、
8:19 言った。「わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」
8:20 すると、ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。
8:21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。
8:22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
8:23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」
8:24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」
8:25 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。
魔術師であったシモンは、フィリポがすばらしいしるしと奇跡の業を行うのを見て、自分にもそのような力が欲しいと願っていた。
しかし、その動機は、自分を大きく見せたいからであり、純粋に人々の救いを願う心からではなかった。
ペテロもそのことをよく分かっていたし、シモンがお金で神の賜物を買おうとしたことにも異を唱えている。
神からの賜物は、人間の能力やお金で買えるようなものではないし、驚くような御業を行う事だけが目的でもない。
神の御心は、人が救われて、平安のうちを歩むようになるためである。
ガラテヤ5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
世の中には、盛大な事、派手な事、楽しい事を求める風潮があるかもしれないが、何もなくても平穏でいられることの方が幸いではないだろうか。
この連休中も、心穏やかに平穏に過ごしたいものである。