イザヤ 24:17 地に住む者よ、恐怖と穴と罠がお前に臨む。
24:18 恐怖の知らせを逃れた者は、穴に落ち込み 穴から這い上がった者は、罠に捕らえられる。天の水門は開かれ、地の基は震え動く。
24:19 地は裂け、甚だしく裂け 地は砕け、甚だしく砕け 地は揺れ、甚だしく揺れる。
24:20 地は、酔いどれのようによろめき 見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる。地の罪は、地の上に重く 倒れて、二度と起き上がることはない。
24:21 その日が来れば、主が罰せられる 高い天では、天の軍勢を 大地の上では、大地の王たちを。
24:22 彼らは捕虜が集められるように、牢に集められ 獄に閉じ込められる。多くの日がたった後、彼らは罰せられる。
24:23 月は辱められ、太陽は恥じる 万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり 長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。
詩篇 23:1 賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。
マルコ 2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
先日、ネットでとある記事をみかけ、興味深く読んでみた。
エホバの証人やオウム真理教などの宗教では、ことさらにハルマゲドンを強調し、世界の終わりに関する恐怖をあおることで信仰に入る者たちがいるといった内容である。
確かに聖書にそういう事も書かれているが、神は人を滅ぼしたいのか、それとも救いたいのかと考えた時、答えは明確であり「救いたい」はずである。
ならば、ことさらに世界の破滅の恐怖を煽ることは、神様の考えていることとは全く違う方向に進んでいると考えるべきなのではないだろうか。
エホバの証人の人たちの話を聞くと、この世を支配している国家や政府が打ち倒されて、神の支配による全く新しい統治がなされる、といったようなことを主張しているようである。
しかも、神を信じる自分たちだけが地上に生き残り、あとの信じない人たちはみな滅びるというのである。
もしそうであるならば、それは、いかにも自己中心的な考えであり、神は信じる者を救う神ではなく、信じない者を滅ぼす神でしかない。
仮にそうなったとしても、これまで世を支配していた人たちに変わって、他の人たちが同じ世界を支配するだけで、人間による支配ということには変わりないし、この世界もかつてのままである以上、同じことが繰り返されるだけであろう。
あるいは、もっとひどくなっているかもしれない。
それを救いと言うならば、あまりにも空しい考えである。
聖書には、確かに「世の終わり」に関することが語られているが、その時が来れば、今の世界とは全く異なる新しい世界が到来し、イエス様の言葉を借りれば、新しい布であり、新しいぶどう酒であり、古い布につぎはぎしたり、古い皮袋に入れたりすることはないのである。
主の栄光が現わされる時、私たちは今のこの世界とは違う、全く新しい世界に生きるものとされる。
そうでなければ、救いとは言えない。
そこは、とても幸いなところであろうし、神が約束されたものである以上、いつかは必ず我々もそこに住むのである。
ならば、何も焦る必要はないし、今はこの世界において、主なる神様が私たちを救いたいと願っておられるという救いの約束を信じて生きるだけである。