ルカ 22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
22:35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
22:36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
22:37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
22:38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
本日の日課の箇所では、イエス様の言動に対する弟子たちの無理解と驕りの姿勢が見え隠れする。
ペテロは、イエス様と一緒なら、たとえ牢に捕らえられて殺されても構わないといったことを述べているが、イエス様は、ペテロが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやるように勧めており、暗にペテロがご自分を見捨てて逃げ出してしまう事を語っておられる。
他の弟子たちに対して、財布も袋も剣も所持しておくように命じておられるけれども、本来は、そのようなものは必要ではないのであるが、おそらくイエス様が捕らえられて殺されるであろう出来事に直面した時には、気が動転してしまい、恐怖と不安に悩まされることになるであろう弟子たちへの、この時点でできる励ましの言葉であったと言えるのではないだろうか。
そのような物を所持していたところで、何の役にも立たないのは分かっているけれども、弟子たちがそれらの物を所持しているだけで少しは安心していられるなら、無いよりはまし、といったところなのかもしれない。
人間は弱い。
そのことが分かっているのなら、無理に強がることはないし、イエス様を信じてさえいれば何でもできると思い上がり、無謀なふるまいをすることは、あまり好ましいことではないだろう。
各々、委ねられた役割や賜物があり、分をわきまえて、突拍子もないことをせず、冷静に行動できるよう、常に心掛けておきたいものである。
ローマ12:3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
おごらず、慎み深く、なおかつ、できる範囲で活動していくこと。
聖書に語られている勧めは、無茶なことを強いるものではなく、いたって実践的なものであることを覚え、この日も歩んでいきたいものである。