ローマ 10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
10:18 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
10:19 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
10:20 イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
10:21 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

信仰による義認という概念は、聖書を理解するうえで、とても重要な事柄である。
一般に、人は、その行いによって正しいかどうかを判断しがちであるが、神の御前ではそうではない。
正確には、キリストの義の業によるのであるが、我々は、そのキリストの義に頼る仕方で、神の語られた救いの約束の言葉を信頼するという方法で、義とみなされるのである。
だから、我々の救いの確約は、キリストの十字架の死と復活を通してのみ与えられるのであり、キリスト以外に、誰一人として罪の償いのための業を全うしたり、さらには、その裁きである死をも打ち破って復活することのできる者などいないのである。
このような恵みは、イエス様を信じることでしか受け取ることはできない。
人間のどんな業も、キリストの御業にはとうてい及ばない。
この「信仰による義認」の約束は、信じて頼る者に与えられる。
ただ聞くだけの者ではなく、その約束に信頼し、頼り、そして、各々の日々の生活の中で信仰者として生きることによって、その信仰を「告白」して行くのである。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

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