ガラテヤ 1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
ガラテヤのクリスチャンたちの中に、ユダヤ教的な教えに回帰しようとする動きがあったのであろう。
あるいは、律法を知らない異邦人クリスチャンらを差別したりといったことが行われていたのかもしれない。
そのような背景があったからか、パウロ自身は、彼の召しを異邦人への宣教と捉えていたようである。
生まれながらのユダヤ人ではなくても、聖書や律法の言葉に詳しくなくても、ただ、キリストの十字架の贖いの御業と、それを信じる信仰によって救われるという恵みの約束の言葉を彼は伝えようとしていた。
我々日本人も異邦人の一部であり、聖書も律法もほとんど知らない民である。
そのような違法の民がキリストを信じて救われるためには、なかなかハードルは高いのかもしれない。
けれど、パウロが語っているように、だからこそ、キリストの恵みのみによって救われる福音を伝えていくべきなのであろう。
古い慣習やしきたり、伝統や保守的な考え方など、案外、それほど大切でもないことに縛られているのかもしれない。
キリストは、あなたを救いたいがために、あなたの身代わりとなって十字架でしなれた。
それほどにキリストはあなたを愛している。
それだけのことである。
これ以外に福音の言葉は存在しないのである。