創世記 14:17 アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。
14:18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。
14:20 敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
14:21 ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。
14:23 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。
14:24 わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」
アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王とサレムの王メルキゼデクがアブラムを出迎えたが、その対応は対照的であった。
まず、サレムの王は、アブラムを祝福するため、パンとぶどう酒を携え、アブラムを神が祝福しておられることを告げ、アブラムももそれに応えて、十分の一をメルキゼデクに捧げている。
一方、ソドムの王は、人は返してもらっても、財産は受け取ってくださいと主張するも、ソドムの王の真意を見抜いたアブラムは、彼の申し出を断り、財産を一切受け取ろうとしなかったのである。
祝福する側とされる側、そして、物を贈る側と受け取る側、どちらに立つかによって、人の立場、上下関係も決まってくる。
そして、もしそれが、この世的な富などに左右されるとしたら、神の国の祝福はゆがんだものとなっていくだろう。
アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げたが、幾ら渡したかではなく、割合で語られていることはとても興味深い。
割合ならば、収入に応じて、多く得たものは多く捧げ、少ない収入の人は少ない金額でも許されるからである。
教会も、金額の大小によって意見が通りやすかったり、ましてや、支配されるような関係であってはならないだろう。
神は人の心を見抜いておられるお方。
そして、我々が十分の一を捧げる前に、先んじて祝福して下さるお方なのである。