どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。
テサロニケ3章12節
 
阪神淡路大震災30周年を迎えました。

そこにいる
 震災30周年を迎えるに当たって、もう一度、Ⅰテサロニケ3章12節のみことばを改めて味わいたいと思います。震災当初、神に失望するさまざまな思いをもつ方がおられたことと思います。そして、今も、いろいろな思いの中におられる方がおられます。その方々と、わたしたちは、「そこにいる」「ともにいる」ようにと召されているのです。また、「そこにいる」「ともにいる」ことができる。それがわたしたち、クリスチャンである。そのことを覚えたいと思います。

キリスト化
この説教を準備しているころ、「(クリスチャンは)イエスご自身がそうであったように、ただ『そこにいる』術を知っている」ということばとともに、もう一つ、心に留まることばがありました。それは、「聖化とは、キリスト者のキリスト化だ」ということばでした。「聖め」ということを強調する教会があります。それは、それで、すばらしいことだと思います。ただ、そうした教会に属する方が、「自分は、聖められた」といったあかしをされるのを聞くと、「ちょっと楽天的過ぎるのでは・・・」と思ってしまうことがあります。でも、「聖化」の目標が、「聖め」ではなく、「キリスト化」、「キリストに似た者となること」と言われ、ストンと腑に落ちる。そんな経験を与えられました。キリストに似た者となって行くことを通して、わたしたちは、さまざまな思いをもっておられる方のその現実の中で、「そこにいる」「ともにいる」ことができるのです。

洗礼
キリストに似た者となって行くことを通して、そのように歩むことができるのです。そして、それは、キリストという贈り物を受け取ることを通して、そのように歩むことができます。それは、キリストの名による洗礼に与ることを通して、その贈り物を、わたしたちは受け取ることができるのです。

(前川隆一牧師)