一般の牧師、説教者のための マルティン・ルター博士の手引き


本文は、一致信条書(聖文舎1982年)による。「使徒信条」「主の祈り」の本文は付録のものを用いた。ただし、第二部は、西日本福音ルーテル教会ビジョン21委員会訳。マルティン・ルターの呼称に統一。聖書の表記は口語訳に統一。

目  次

序 文
十 戒
使徒信条
主の祈り
聖なる洗礼の礼典
ざんげ
聖壇の礼典
朝と夜の祈り
祝福と感謝の祈り
家 訓

謝辞(Thanks To:)

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ウイスコンシン州ウエストペンドのピルグリム・ルーテル教会、 ミズリー州フレデリックスタウンのトリニティ・ルーテル教会、 ミネソタ州のアーデンヒルズのトリニティ・ルーテル教会、 ジェームズ・ボルト氏、ロビン・フィッシュ牧師夫妻、ダン・デモレット氏夫妻。Pilgrim Lutheran Church, Westbend, WI, Trinity Lutheran Church,Frederickstown, MO, Trinity Lutheran Church, Arden Hills, MN, Mr.Jmes Boldt, Rev.&Mrs.Robin Fish, Mr.&Mrs.Dan DeMorrett.

すべての忠実にして敬虔な牧師、説教者に


マルティン・ルター

われわれの主イエス・キリストにある、恵みと、あわれみと、平和があるように。 私をして、しいて、このような小さくて、単純、平明なかたちで、この「教理問答」もしくは、「キリスト教の教え」をまとめさせたのは、最近私が、視察官として、巡視したときに目撃した、悲惨な、言いようのない、危急の状況であった。愛する神よ、助けたまえ、私は、何という多くの悲惨を見たことであろうか。一般の人々は、特に村落においては、全くキリスト教の教えについて無知であるし、さらに、悲しむべきことには、多くの牧師たちのほとんどが教える能力なく不適格者である。彼らは洗礼を受け、聖礼典にあずかり、キリスト者と呼ばれていながら、「主の祈り」も「使徒信条」も「十戒」も知らず、あたかも愛すべき家畜、愚かな豚のごとくに生きている。そこに福音がきているのに、彼らはすべての自由を、巧妙に悪用することしか知らない。ああ、あなたがた、司教たちよ、あなたがたは、人々をかくも恥ずべき状態に捨ておき、あなたがたの聖なるつとめを、つかの間も省みないで、いったいキリストに何と答えようというのか。ああ、すべての刑罰があなたがたの上にふりかからないように! あなたがたは、ひとつの形(聖餐における杯)を禁じ、あなたがた自身の、人間のおきてを守るべきことを彼らに要求しながら、彼らに、「主の祈り」「使徒信条」または「十戒」を、あるいは、神のことばの何かを知らせようとは、少しもつとめようとしない。ああ、あなたがたは永遠に裸である。 このゆえに、私は、私の愛する兄弟たち、牧師、説教者であるあなたがたに、神のために、あなたがたが、心からあなたがたの職務に励み、あなたがたに託された民をあわれみ、われわれを助けて、この教理問答を、人々に、特に若い人々に教えていただきたいと願う。もしあなたがたの中で、十分な能力を持たない人がいるならば、その短文と様式とを採用し、人々には一語一語次のように教えてほしい。すなわち- 第一に、説教者に大事なことは、「十戒」「主の祈り」「使徒信条」「聖礼典」などに関する、種々雑多な本文やかたちを警戒し、これを避けることである。むしろ反対に、一定のかたちを採用し、これを守り、毎年同一のものをいつも用いるべきである。というのは、若い、経験の浅い者は、一定の本文とかたちとで教えるべきであり、もしそうしないで、今日のように、一年中、時としてはこのように教え、ある時は修正してかのように教えるならば、容易に彼らをつまずかせ、あらゆる労苦と勤勉とをむだにしてしまうであろう。このことは、愛する教父たちもまたよく知っていたところであり、「主の祈り」「使徒信条」「十戒」などすべてを、同一の方法で使用してきた。したがって、われわれもまた、若い、単純な人々を教えるにあたって、一字も狂わすことなく、また、年ごとに違ったことを覚えさせたり、語らせたりしないように、注意しなければならない。ゆえに、あなたがたのために、自分の欲するひとつのかたちを選び、これを長く守るべきである。しかし、もしあなたがた学者や知性のある人々に説教するときには、あなたの学識をかたむけ、できるだけ多彩に、巧みにやるのもよかろう。しかし、若い人々に対しては、一定の、永続的なかたちと方法を守り、まず何よりもさきに、「十戒」「使徒信条」「主の祈り」などを、本文に従って一語一語、彼らが復唱することができ、暗記するようになるまで、教えこまねばならない。 しかし、あなたの教えを受けようとしない者があるならば、その人々は、キリストを否定するものであり、キリスト者ではないことを告げ、聖礼典にあずかることも、小児洗礼に立ち会うことも、またキリスト教的ないかなる特権を使用することもさせてはならない。むしろ、当然のこととして教皇とその教会裁治官らに、ついには悪魔自身に、引き渡されるべきである。さらに、両親や家長は彼らに食わせても飲ませてもならない。そして、このような粗暴な人々を、この領土から追放するように君主に訴えるがよい。 もちろん、何ぴとをも、信仰に強制することはできないし、またするべきでもない。しかし、彼らが住む場所で、また共に生活する人々の間で、何が正であり、何が不正であるかを、大衆が知るようにさせなければならない。なぜなら、一つの町に住みたいと思う者は、神を信じていようと、いまいと、内心では悪党であり、奸物であったとしても、彼が利益を受けようとするところの、国のおきてを知り守らねばならないからである。 第二に、もし彼らが、本文によく通じたならば、さらに本文が明らかにしている内容を知るために、その意味を、教えなさい。またこの短文の方法、あるいはあなたが欲するところの、短い一定の方法を採用するにしても、本文に関しては上述したように、それを守り、ただの一綴りたりとも乱してはならない。さらに時間をかけるがよい。というのは、必要なことは全部を一度に取り上げることではなくて、むしろ一つ一つ取り上げることである。第一の戒めを十分に理解した後に、第二の戒めに、さらに次へと進みなさい。そうでないと、教えが過剰になり、かえってただの一つも得ることができなくなるであろう。 第三に、この短い教理問答を、教え終わったら、次にはあなたがたのために、「大教理問答」を用いて、彼らにより豊かな、広範な理解を与えなさい。そこには、あらゆる戒め、祈願、個々の信条が、その多様な行為や利益や、敬虔、危険、害などとともに示されている。それはあなたが、これらのことに関して書かれた、おびただしい小冊子の中に、これらすべてのことを、豊かに見いだすとおりである。また、人々にとって最も多く適用されることが必要な、「戒め」や「個々の信条」を特に強調しなさい。たとえば、盗みに関する第七戒は、手工業者や商人の間に、否、農民や召使いたちにも、あなたは、極力強調しなければならない。というのは、この人々の間には、多くの不真実があり、盗みが多いからである。同様に、第四戒は、子どもたちと、一般の人々に彼らが温順であり、誠実、従順、平和であるために、神が罰し、または祝福してくださった人々を、いつでも聖書から、多くの例証を引き出して、教えねばならない。 また、権力者と両親とには、彼らがよく治め、子どもを学校に行かせることに努力することは彼らの責任であることを指示し、彼らがそれをしない時には、呪われるべき罪を犯すことだということを知らせなさい。というのは、彼らは、それによって神と人との、最大の敵として、神の国と、この世の国とを、ともに破壊し、荒らすからである。また彼らが、子どもたちを助けて、牧師、説教者、著述家等になるようにしむけないならば、いかにそれは、おどろくべき損害であるかを、また、神は、彼らをそれゆえに、きびしく罰されることを、はっきりと示すべきである。ゆえに、ここに説教することの必要がある。両親や権力者が、語ることをしないならば、彼らは罪を犯しており、悪魔もまた、残忍なことを、その時もくろんでいるのである。 最後に、彼らは、教皇の圧制が取り去られたので、聖礼典にあずかることをきらい、これを軽んじている。この点について次のことを強調することが必要である。すなわち手段をろうして何ぴとをも信仰や聖礼典に、強制することはできないし、また、いかなる規定も、時も、場所も決めるべきではないが、われわれの規定がなくとも、全く自発的に、われわれ牧師に、聖礼典を執行するように、強く求めるにいたるまで説教すべきである。人々をして、このようにさせるためには、次のように言わねばならない。すなわち聖礼典を求めない人々、少なくとも年に一回ないし四回すら欲しないならば、それは聖礼典を軽視することであり、またキリスト者ではないということを、深く考えるべきである。それは福音を信ぜず、聞かない者が、キリスト者ではないのと同様である。なぜならキリストは「これを捨てよ」とも、「これを軽んぜよ」とも語られなかった。そうではなく、「飲むたびにこれを行なえ…」と語られたのである。彼はその実行を真実望まれたし、またこれをいささかでもゆるがせにしたり、軽んじたりするのをおきらいであった。彼は「これを行なえ」と言われるのである。 聖礼典を尊重しない者は、彼が罪も、肉も、悪魔も、この世も、死も、危険も、地獄も、持たないことをしるしとしている。すなわち、彼は耳の上までその中に沈んでいるのに、そのことを信じないのである。そして彼は二重に悪魔のものなのだ。反対に、彼は、いかなる恵みも、生命も、楽園も、天国も、キリストも、神も、何らかの善をも必要としない。というのはもし彼が、いかに多くの悪を持ち、またいかに多くの恵みを必要としているかを信じていたときには、そのような悪から守り、恵みを与える聖礼典を、けっして捨てはしなかったはずだからである。人をして、強制的に、いかなる規定をもってしても、聖礼典にあずからせてはならないが、そうでなくて彼自身かけつけ、すすんであなたのもとに来、あなたをして、聖礼典を与えざるをえないようにしなければならない。 このゆえに、あなたは、ここでは教皇がしたような、いかなる規定も設定すべきではなく、ただこの聖礼典における効用と損失、欠乏と利益、危険と救いとを教えればよい。そうすればあなたが強制しなくても来るようになるだろうし、もし来ないならば、そのおもむくにまかせなさい。そして彼らが自己の困窮と、神の恵み深い助けとを注意することもせず、また感じることもしないならば、彼らは悪魔のものであることを告げなさい。しかし、もしあなたがそのように教えることなく、あるいはそこから規定と害毒とを作り出すならば、彼らが聖礼典を軽んじるのは、あなたの責任である。あなたが眠り沈黙しているならば、どのようにして彼らは怠惰でないことができようか。それゆえ、牧師、説教者たちよ、このことを考えなさい。今や、われわれの職責は、教皇のもとにあった時とは異なるものとなり、まじめな、有益なものとなっている。このゆえに、今や多くの困難と労苦、危険と攻撃とがあり、この世においては、感謝と報いとは少なくなってくるであろう。しかし、キリストがみずからわれわれの報いとなろうとしておられる。それゆえわれわれは忠実に働くのである。すべての恵みの父が、われわれを助けてくださるように。われわれの主キリストによって、讃美と感謝とが、永遠に彼にあるように。アーメン。

十 戒


家長が、その家の者に対して、これらをいかに単純に教えるべきかについて。

第一戒 あなたは、他の神々を持ってはならない (出エジプト20:3)。

この意味は。

答 -
われわれは、何ものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼すべきです。

第二戒 あなたは、あなたの神の名を、みだりに唱えてはならない (出エジプト20:7)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは神の名を使って呪ったり、誓ったり、魔術を行なったり、うそをついたり、だましたりしないで、むしろ、困ったときにはいつでも、神を呼び求め、神に祈り、神をほめたたえ、感謝するのです。

第三戒 あなたは、安息日を聖とせよ (出エジプト20:8)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、説教や神のことばを軽んじないで、むしろ、これを聖なるものとして保ち、喜んで聞き、学ぶのです。

第四戒 あなたは、あなたの父と母を敬え(出エジプト20:12)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、両親や、主人を、軽んじたり、怒らせたりしないで、むしろ、彼らを尊敬し、彼らに仕え、従い、愛し、また敬うのです。

第五戒 あなたは、殺してはならない (出エジプト20:13)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人のからだをきずつけたり、苦しめたりしないで、むしろ、あらゆる困難の場合に、彼を助けはげますのです。

第六戒 あなたは、姦淫してはならない (出エジプト20:14)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、言葉においても、行ないにおいても、きよく正しく生き、また夫婦は互いに愛し、敬いあうのです。

第七戒 あなたは、盗んではならない (出エジプト20:15)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人の金や品物をうばったり、また不正な品物や取引きでもうけたりしないで、むしろ、彼の財産や生活を助けて、改善し、保護するのです。

第八戒 あなたは、あなたの隣人に対して、偽りの証しを語ってはならない (出エジプト20:16)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人をだましたり、裏切ったり、悪口を言ったり、あるいは悪い評判を立てたりしないで、むしろ、彼を弁護し、彼について良いことを語り、すべてを善意に解するのです。

第九戒 あなたは、あなたの隣人の家をむさぼってはならない (出エジプト20:17a)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人の、遺産や家を、悪だくみをもってねらったり、あるいは、法律を口実にして、それを自分のものにしたりなどしないで、むしろ、彼がそれを所有することができるように、促し、仕えるのです。

第十戒 あなたは、あなたの隣人の妻、しもべ、しもめ、家畜、また彼のものをむさぽってはならない (出エジプト20:17b)。

この意味は。

答 -
われわれは、神を畏れ、愛すべきです。それでわれわれは、隣人の妻、しもべ、または家畜を、そそのかしたり、うばったり、そむかせたりしないで、むしろ、彼らがとどまって、そのつとめを果たすように、引きとめるのです。

さて、神は、これらすべての戒めに対して、何と言われますか。

答 -
神は次のように言われます。 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、恵みを施して、千代に至るであろう」 (出エジプト20:5-6)。

この意味は。

答 -
神は、これらの戒めにそむくすべての人をさばくと、警告なさいます。それゆえ、われわれは神の怒りの前に恐れおののいてこれらの戒めにそむかないようにするべきです。しかし神は、これらの戒めを守るすべての人々に、恵みと幸いとを約束されます。それゆえわれわれもまた、神を愛し、信頼し、神の戒めに従って喜んで行動すべきです。

使徒信条

家長は、家の者に対して、これをいかに最も単純に、教えるべきかについて。


第一条 創造について

われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。

この意味は。

答 -
私は、神が私をすべてのものとともにつくられたことを信じます。神が私に、体とたましい、目と耳と両手両足、理性とすべての感覚を与えられたこと、今もなお保たれることを、私は信じます。そのうえに神は、着物とはき物、食物と飲み物、家と屋敷、妻と子ども、田畑と家畜とすべての財産とを、体と生活のために必要なすべてのものともども、毎日豊かに与え、あらゆる危害から保護し、またすべての悪から守り、防がれることを信じます。そして、これらすべては、全く、私の功績とか、値うちとかによるのではなく、純粋に父としての、神の慈悲とあわれみによるのです。これらすべてのことのゆえに、私は神に感謝し、神を讃美し、また奉仕し、服従するのです。これは確かにまことです。

第二条 救いについて

われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ボンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、よみに下り、三日目によみがえり、天に昇り、父なる全能の神の右に座したまえり。生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。

この意味は。

答 -
父から永遠の中に生まれたまことの神であって、おとめマリヤから生まれたまことの人イエス・キリストが、私の主であると、私は信じます。主が金や銀をもってではなく、ご自身のきよい、尊い血、罪なくして受けた苦しみと死とをもって、失われ、罪に定められた人間である私を、すべての罪と、死と、悪魔の力とから救い出し、あがない出し、勝ちとってくださったことを私は信じます。こうして、私は主のものとなり、み国において彼のもとで生き、永遠の義と純潔と救いとの中に主に仕えるのです。それは、主が死からよみがえり、永遠に生きてすべ治められるからです。これは確かにまことです。

第三条 聖化について

われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなき命を信ず。アーメン。

この意味は。

答 -
自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを、私は信じます。けれども、聖霊は、福音をとおして私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。それは聖霊が、この地上の全キリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そして、イエス・キリストにある、まことの一つの信仰のうちに支えられるとおりです。聖霊はこのキリスト教会において私とすべての信仰者に、日ごとにすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、私に、キリストを信じるすべての者とともに、永遠の生命を与えてくださいます。これは確かにまことです。

主の祈り

家長は、その家の者に対して、 これ(マタイ6:9-13)をいかに最も単純に、教えるべきかについて。


呼びかけ 天にましますわれらの父よ。

この意味は。

答 -
神は、これによって、神がわれわれのまことの父であり、われわれが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって神に求めることをおすすめになります。

第一の願い 願わくはみ名をあがめさせたまえ。

この意味は。

答 -
神の名はもちろんそれ自身聖なるものですが、われわれはこの祈りによってわれわれの間においても、これが聖なるものであるように祈るのです。

それはどうして実現しますか。

答 -
それは神のことばが正しく、純粋に教えられ、またわれわれが神の子として、みことばに従ってきよく生活するときに実現します。天におられる愛する父よ、このためにわれわれを助けてください。しかし、神のことばの教えるところと違うことを教えたり、行なったりする人は、われわれの間にあって、神の名を汚すのです。天の父よ、このことからわれわれを守ってください。

第二の願い み国を来たらせたまえ。

この意味は。

答 -
確かに神の国は、われわれの祈りがなくても、自ら来るものです。しかしわれわれはこの祈りにおいて、み国がわれわれのところにも来るようにと祈るのです。

それはどうして実現しますか。

答 -
それは天の父がわれわれに聖霊を与えて、われわれが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

第三の願い みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

この意味は。

答 -
神のよい、恵み深いみこころは、われわれの祈りがなくとも、実現するのです。しかしわれわれはこの祈りにおいて、みこころがわれわれのところでもまた実現するように祈るのです。

それはどうして実現しますか。

答 -
それは、悪魔やこの世の思いや、われわれの肉の意思があって、われわれにみ国の来ることを妨げようとする、すべての悪いたくらみと意図とを、神が打ちこわし、阻止して、反対に、みことばと信仰のうちに、最後までわれわれを強め、かたく保たれるときに実現します。これこそ、よい恵みあるみこころです。

第四の願い われらの日用の糧を今日も与えたまえ。

この意味は。

答 -
確かに、神は、毎日の食物を、われわれの祈りがなくても、すべての悪人にさえ、与えてくださいます。しかしわれわれはこの祈りにおいて、神がわれわれに、このことを知らせ、感謝をもって、毎日の食物を受けるようにしてくださることを祈るのです。

毎日の食物とは何ですか。

答 -
それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使い、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです。

第五の願い われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。

この意味は。

答 -
われわれはこの祈りにおいて、天の父がわれわれの罪に目をとめられないように、またこの罪のゆえに、このような願いを拒まれないように願うのです。というのは、われわれは、祈るといっても、それにふさわしいなんの値うちもなく、功績もないからです。むしろ神が恵みによってすべてのものをわれわれに与えようとなさったのです。なぜなら、われわれは日々多くの罪を犯し、まことに罰に値するのみだからです。このようにわれわれとしてもまた、われわれに罪を犯す者を、心からゆるし、喜んで親切にしたいものです。

第六の願い われらを試みにあわせず、

この意味は。

答 -
確かに神は、だれをも試みにあわせられません。しかしわれわれはこの祈りにおいて、神がわれわれを助け守って、悪魔やこの世やわれわれの肉が、われわれをあざむいたり、またまちがった信仰や絶望、またはその他の大きなとがや罪悪におちいらせないようにしてくださることを、またたとえわれわれが試みにあっても、われわれが最後にはこれに打ち勝ち、勝利を得ることができるようにしてくださることを祈るのです。

第七の願い 悪より救い出したまえ。

この意味は。

答 -
われわれは、この祈りにおいて、ひとまとめにして、天の父がからだとたましい、財産と名誉にかかわるすべての類の悪から、われわれを救い、そしてついにはわれわれの臨終にさいして祝福された終わりを与え、恵みをもって、悲しみの多いこの世から、天へと受けいれてくださることを祈るのです。

結び 国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン

アーメンの意味は。

答 -
私が確信しているべきことは、これらの願いが、天の父のみこころにかない、聞き入れられるということです。なぜなら、神ご自身がこのように祈れと、われわれにお命じになり、そのうえ、聞き入れると、われわれに約束なさったからです。アーメン、アーメンということは、はい、はい、そのようになるのだという意味です。

聖なる洗礼の礼典

家長が、その家の者に対して、これをいかに単純に、教えるべきかについて。


第一 洗礼とは何ですか。

答 -
単なる水だけではなく、神の命令に含まれ、神のことばと結びついた水です。

この神のことばはどれですか。

答 -
われわれの主キリストが、マタイによる福音書の終わりに次のように言っておられます。「それゆえに、あなたがたは行って。すべての国民を弟子として、父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテスマを施し、」 (マタイ28:19)。

第二 洗礼は何を与え、どんな役に立ちますか。

答 -
それは、罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救いだし、信じるすべての者に、永遠の救いを与えます。神のみことばと約束とが宣べているとおりです。

神のそのようなみことばと約束とは、どれですか。

答 -
われわれの主キリストが、マルコによる福音書の終わりに次のように語っておられます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」 (マルコ16:16)。

第三 どうして水が、このような大きなことをすることができますか。

答 -
言うまでもなく、水がそのようなことをするのではなく、水と結びつき、水とともにある神のことばと、水とともにある神のこのようなことばを信じる信仰がするのです。なぜなら、みことばなしには、水は単なる水であって、洗礼ではないからです。しかし神のことばとともにあるとき、それは洗礼です。すなわち、それは恵み深いいのちの水であって、「聖霊による新しい生まれかわりの洗い」なのです。聖パウロが、テトスヘの手紙第3章(5-7節)に言っているとおりです。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」

第四 このような水の洗礼は、いったい何を意味しますか。

答 -
それは、われわれのうちにある古いアダムが、毎日の心の痛みと悔い改めによって、すべての罪と、悪い欲望とともに溺れて死ななければならず、また義と純潔とをもって、とこしえに生きるべき新しい人が日ごとに現われ、よみがえることを意味します。

それはどこにしるされていますか。

答 -
聖パウロは、ローマ人への手紙第6章(4節)に次のように語っています。 「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」

ざんげ

単純な人々に、ざんげについていかに教えるべきか。


ざんげとは何ですか。

答 -
ざんげは二つの部分からなっています。一つは罪の告白であり、他は、赦免の宣言、あるいはゆるしを、神ご自身からのように、ざんげを聞く牧師から受け、しかも疑うことなく、むしろ天におられる神のみ前に、そのことによって罪がゆるされていることを、かたく信じることです。

それならいかなる罪をざんげしなければならないのですか。

答 -
神のみ前において、われわれは、すべての罪を、負わねばなりません。「主の祈り」においてわれわれがするように、自分で気づかない罪をもまた負わねばならないのです。しかし、ざんげを聞く牧師の前では、われわれが知り、心の中で感じる罪のみを、告白しなければなりません。

それはどんなものですか。

答 -
十戒に照らして、あなたの状態をかえりみるのです。すなわち、あなたは、父、母、息子、娘、主人、主婦、しもべであるかどうかを。あなたは不従順、不真実、怠惰、短気、不貞、激情的ではなかったかどうかを。あなたは、言葉や行ないによって、だれかに苦しみを与えはしなかったかどうかを。あなたは、盗みをし、怠り、なげやりにし、害を与えはしなかったかどうかを。

どうか簡単な、ざんげの方法を、私に示してください。

答 -
あなたは、ざんげを聞く牧師に、このように言わなければなりません。
「敬愛する師よ。私は、あなたにお願いします。私のざんげを聞いて、私に神のゆえにゆるしを告げてください」。
このように言いなさい。
「あわれな罪人である私は、神のみ前に、すべての罪を負い目として告白します。ことにあなたの前に、私が、しもべ、しもめなどであることを告白します。しかし、私は残念なことに私の主人に対して忠実に仕えませんでした。なぜなら、命じられたことをしばしば実行せず、彼らを怒らせ、呪いにかり立て、怠り、害をこうむらせました。また、言葉においても、行ないにおいても恥知らずであり、仲間と争い、女主人に対して不平を言い、うらんだりなどしました。これらすべてのことは、申しわけないことであり、おゆるしを願います。私はよりよくなることを願っています」。
主人あるいは女主人は次のように言いなさい。
「特に、私は、あなたの前で、神を敬うように私の子どもと召使いと、妻とを忠実に養育しなかったことを告白します。私は呪ったり、不貞な言葉や行ないによって悪例を与え、私の隣人に対して害を加え、悪口を言いふらし、高く売りつけ、悪くて不完全なものを与えました」
と。その他自分がなお神の戒めと、彼の身分に反して行なったことなどについて。
しかし、もし何ぴとにせよ、このような、もしくはさまぎまの大きな罪によって、自ら苦しむことを感じないならば、その人は不安になったり、さらに罪を求めたり案出したり、それによってざんげから苦痛を作り出したりしてはなりません。むしろあなたが、気づいた一つ、二つについてこのように語りなさい。
「特に私はかつて呪ったことがあり、そのほか、言葉に思慮を欠いたことや、これらのかずかずを怠ったことがあったことを告白します」
と。これで十分としましょう。
しかし、あなたが全く何も知ることがないならば(全くそれは不可能であるに違いないのだが)、特別に何も言うことなく、あなたが神の前でするように、ざんげを聞く牧師に対して、一般のざんげをして、それによって、罪のゆるしを受けなさい。
それに対してざんげを聞く牧師は次のように言わなければなりません。
「神があなたに対して恵み深く、あなたの信仰を強めてくださるように。アーメン」。
さらに言いなさい。
「あなたは、私のゆるしが、神のゆるしであることを信じますか」。
答「はい、敬愛する主よ」。
それに対して彼は次のように言いなさい。
「あなたの信じたようになるように。そして私は、われわれの主イエス・キリストの命令により、父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします。アーメン。安心して行きなさい」。
ざんげを聞く牧師は、良心の大きな重荷をもっている者、悩む者、試みられている者を、さらに多くの聖句をもって慰め、信仰に鼓舞するすべをよく知っているでしょう。これこそが単純な者のための、ざんげの通常の方法であるはずです。

聖壇の礼典

家長が、その家の者に対して、いかにこれを単純に、教えるべきかについて。


聖壇の礼典とは何ですか。

答 -
それは、われわれの主イエス・キリストの、まことの肉、まことの血であって、われわれキリスト者が、パンとぶどう酒とともに食し、飲むようにと、キリストご自身によって設定されたものです。

それはどこにしるされていますか。

答 -
聖なる福音記者、マタイ、マルコ、ルカそして聖パウロが次のように書いています。 「われわれの主イエス・キリストは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた。取って食しなさい。これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしの記念として、これを行ないなさい。食事ののち同じようにして杯を取り、言われた。みなこの杯から飲みなさい。これは罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、これを行ないなさい」(第一コリント11:23-25、マタイ26:26-28、マルコ14:22-25、ルカ22:16-20)。

このような飲食が、どんな役に立ちますか。

答 -
それは、「これは罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために与えられ、流されるのだ」(ルカ22:19-20、マタイ26:28)とのみことばに示されています。すなわち、この聖礼典において、このみことばをとおして、われわれに、罪のゆるしと、生命と、祝福とが与えられるのです。それは罪のゆるしのあるところに、生命と祝福とがあるからです。

肉体的な飲食が、いかにしてそのような、大きなことをすることができるのですか。

答 -
もちろん、それをするのは飲食ではなく、ここに言われているところの、「あなたがたのために与えられ」 「罪のゆるしのために流され」とのみことばです。このみことばは、肉体的な飲食とともに、聖礼典における主要な部分です。そしてこのみことばを信じる者は、このみことばが、語り、宣言すること、すなわち、「罪のゆるし」を得るのです。

どのような人が、この聖礼典にあずかるにふさわしいのですか。

答 -
断食や、肉体的準備をすることは、確かに外面的にはよい訓練です。しかし「これは罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために与えられ、流されるのだ」とのみことばを、信じる者こそ、まさしく、ふさわしく、適している人です。しかし、このみことばを信ぜず、疑う者は、ふさわしくなく、適していない者です。それは、「あなたがたのために」とのみことばは、純粋に信じる心を要求するからです。

家長が教える朝と夜の祈り


朝の祈り

(朝起きたとき、十字を切って)

父と御子と聖霊の、ひとりのまことの神様のお名前によって祈ります。アーメン。

(そこで跪いてもよいし、立ったままでもよい。使徒信条と主の祈りを言う。もし望むなら次の短い祈りを加えてもよい)

私の天のお父様、 あなたの愛するひとり子のイエス様によりきのうの晩、 私を守ってくださって、本当に感謝をいたします。 今日も一日神様が、すべての罪やけがれから、 私を守っていてください。 私のすること、話すこと、私の今日の一日が、 あなたのみむねにかなうこと、これが私の祈りです。 私の体も魂も、そっくりあなたにまかせます。 あなたの聖なるみ使いに、悪い者の力から私を守らせてください。 主イエスのお名前によって祈ります。

(そして、十戒や、その他自分の信仰の示すところに従って讃美歌を歌いつつ、喜んで自分の仕事につく)

夜の祈り

(夜寝る前に、十字を切って)

父と御子と聖霊の、ひとりのまことの神様のお名前によって祈ります。アーメン。

(そこで跪いてもよいし、立ったままでもよい。使徒信条と主の祈りを言う。もし望むなら次の短い祈りを加えてもよい)

私の天のお父様、 あなたの愛するひとり子のイエス様により今日の日も、 私を守ってくださって、本当に感謝をいたします。 私のおかした罪のため、主イエス様が十字架で かわりに死んでくださった 恵みの約束信じます。 赦されたことで安心し、あなたの恵みを喜びます。 私の体も魂も、そっくりあなたにまかせます。 あなたの聖なるみ使いに、悪い者の力から私を守らせてください。 主イエスのお名前によって祈ります。

(そしてすぐに喜びの内に眠ります)

家長が教える祝福と感謝の祈り


食前の祈り

みんなのひとみはあなたに向けられ 主はよいときに食べ物をくださる。 あなたはその手を大きく広げ すべてのいのちを養い育てる。

(主の祈りを祈り、そして次のように祈る)

主なる神様、天のお父様 わたくしたちとこのプレゼントを、豊かに祝福してください。 あなたのあふれる恵みの中から、これらの食べ物をいただきます。 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。

食後の祈り

主に感謝せよ、主はすばらしい、 主のみ恵みには限りがない。 主は生き物に食べ物をあたえ、鳴くこがらすをも養い育てる。 馬の力を主は喜ばない、人の足をも好まない、 主の喜びは主に頼る人、主へのおそれの宿る人。 たしかなたしかな主の愛にだけ、すべての望みをかける人。

感謝の祈り

(主の祈りを祈り、そして次のように祈る)

主なる神様、天のお父様、あなたに感謝をいたします。 あなたの恵みはことごとく 主イエスを通して受け取ります。 父なるあなたと御霊と共に、とこしえに生き、すべ治められる、 主イエスのお名前で祈ります。アーメン。

家 訓 (Haus Tafel)

種々の聖なる階級や地位にある人々のための、 これによって彼ら自身、彼らの職務と奉仕とを戒めるための、若干の該当聖句。

監督、牧師、および説教者に

「さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡白で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子どもたちを従順な者に育てている人でなければならない。彼はまた、信者になって間もない者であってはならない」

テモテヘの第一の手紙第3章(2-4、6節)

キリスト者が、彼らの教師、牧師に対してなすべきつとめはなにか

「それで、その同じ家に留っていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人が、その報いを得るのは当然である」

ルカによる福音書第10章(7節)

「それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」

コリント人への第一の手紙第9章(14節)

「みことばを教えてもらう人は、教える人と、すべてよいものを分け合いなさい。まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない」

ガラテヤ人への手紙第6章(6節以下)

「よい指導をしている長老、特に宣教と教えとのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。聖書は、『穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない』また、『働き人がその報酬を受けるのは当然である』と言っている」

テモテヘの第一の手紙第5章(17-18節)

「兄弟たちよ、私たちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい」

テサロニケ人への第一の手紙第5章(12節)

「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべきものとして、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」

ヘブル人への手紙第13章(17節)

この世の権威について

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものであるからである。従って権威にさからう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神のしもべであって、悪事を行なう者に対しては、怒りをもって報いるからである」

ローマ人への手紙第13章(1節以下)

国民がこの世の権威に対してなすべきつとめはなにか

「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」

マタイによる福音書第22章(21節)

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである…。だから、ただ怒りをのがれるためではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務めに携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」

ローマ人への手紙第13章(1、5節以下)

「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと祈りと、とりなしと、感謝とをささげなさい。それは私たちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである」

テモテヘの第一の手紙第2章(1-3節)

「あなたは彼に勧めて、支配者、権威ある者に服し、それに従い、いつでもよいわざをする用意があり…」

テトスヘの手紙第3章(1節)

「あなたがたは、すべての人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行なう者を罰し善を行なう者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい」

ペテロの第一の手紙第2章(13節以下)

夫に対して

「夫たる者よ、あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻とともに住み、いのちの恵みを共々に受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためである」

ペテロの第一の手紙第3章(7節)

「つらくあたってはいけない」

コロサイ人への手紙第3章(19節)

妻に対して

「妻たる者よ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」。「たとえば、サラはアブラハムに仕えて、彼を主と呼んだ。あなたがたも、何事にもおびえ臆することなく善を行なえば、サラの娘たちとなるのである」

ペテロの第一の手紙第3章(6節、エペソ5:22)

両親に対して

「父たる者よ、子どもをおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい」

エペソ人への手紙第6章(4節)

子に対して

「子たる者よ、主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母を敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きながらえるであろう』」

エペソ人への手紙第6章(1-3節)

しもべ、しもめ、日雇い人、および労働者などに対して

「しもべたる者よ、キリストに従うように、恐れおののきつつ真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして目先だけのつとめをするのでなく、キリストのしもべとして心から神のみ旨を行ない、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなたがたが知っているとおり、だれでもよいことを行なえば、しもべであれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう」

エペソ人への手紙第6章(5-8節)

主人と女主人に対して

「主人たる者よ、しもべたちに対して、同様にしなさい。おどすことをしてはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである」

エペソ人への手紙第6章(9節)

一般の若者に対して

「若い人たちよ、長老たちに従いなさい。また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強いみ手の下に、自らを低くしなさい。時がくれば神はあなたがたを高くしてくださるであろう」

ペテロの第一の手紙第5章(5節以下)

やもめに対して

「真にたよりのない、ひとり暮らしのやもめは、望みを神において、日夜、たえず願いと祈りとに専心するが、これに反して、みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない」

テモテヘの第一の手紙第5章(5節以下)

一般の人々に対して

「そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』ということばに帰する」

ローマ人への手紙第13章(9節)

「すべての人々のために、願いと、祈りと、とりなしと、感謝とをささげなさい」

テモテヘの第一の手紙第2章(1節)

おのおのその教えを学びなさい。そうすれば全家に幸いがあるであろう。

付 録


十 戒

第一戒 わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

第二戒 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主は、み名みだりに唱えるものを、罰しないではおかないであろう。

第三戒 安息日を覚えてこれを聖とせよ。

第四戒 あなたの父と母を敬え。これはあなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。

第五戒 あなたは殺してはならない。

第六戒 あなたは姦淫してはならない。

第七戒 あなたは盗んではならない。

第八戒 あなたは隣人について偽証してはならない。

第九戒 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

第十戒 隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべての隣人のものをむさぽってはならない。

使徒信条

われは、天地のつくりぬし、父なる全能の神を信ず。 われは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、よみに下り、三日目によみがえり、天に昇り、父なる全能の神の右に座したまえり。生ける人と死にたる人とをさばかんがため、かしこより再び来たりたまわん。

われは聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会、すなわち、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、限りなき命を信ず。アーメン

主の祈り

天にましますわれらの父よ。

願わくはみ名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

われらの日用の糧を今日も与えたまえ。

われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。

われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン