<讃美歌>讃美歌317番「主イエスの血潮と」  

<聖書日課>マタイ5章43~48節「神のように完全な者」

イエス様は、小高い山に登り、集まってきた人々や弟子たちに話をされました。(山上の説教です)

その中でイエス様は、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(48節)と言われます。しかし人間である以上、誰が完全な者となることが出来るでしょうか。

私は、信仰を持ち始めたころ、48節のみことばを自分の努力目標のように読み替えていました。「あなたは、天の父が完全なように、完全な者となるように努力しなさい」と。

でも、完全な者となるように努力すればするほど、自分が不完全な者であることが鮮明になってきました。人は、善であろうとすればするほど、自分の内に悪があることが気になります。

しかしイエス様は、ハッキリと私たちに言われます。「天の神様のように、完全な者でありなさい」と。

世の中には、憎しみや争いが満ちています。自分の心の中を見ても、とても「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことなどできないと思ってしまいます。

そのような思いが、私の心の中に渦巻いていたころ、私はふと教えられました。それは、私が完全な者であることを評価するのは、神様であって私ではないことです。

イザヤ書に次のようなみことばがあります。

『「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ1章18節)

父なる神様が、私たちに求めておられることは、ご自分のもとに来ることだけです。そのような者が、神様の前で<完全な者>なのです。

こんな話があります。ある時、宗教改革者ルターの前にサタンが現れ、ルターを神様から引き離そうとしてルターの罪を壁一面に書き出しました。そこには、ルターも忘れていた罪もありました。

ルターはサタンに向かって叫びました。「お前の指摘は正しい。私はそのような罪を犯した者だ。ただお前は一つのことを忘れている。その私の罪は、イエス・キリストの十字架の血によって赦された」。

そうしてルターは、机の上にあった赤インクを壁に投げつけました。

私たちは、イエス・キリストが十字架で流してくださった血の効力を、過小評価していないでしょうか。

イエス様が、私のために十字架で血を流して死んでくださったことを信じる私たちは、今すでに「天の父が完全なように、完全な者」なのです。

八鹿教会のお一人お一人が、「神のように完全な者」とされていることを感謝して、これからの信仰生活を過ごされますように願っています。

そうする時に、父なる神様はあなたを「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る者」と変えられるのです。  アーメン

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