<讃美歌>讃美歌394番「主よ終わりまで 仕えまつらん」 

<聖書日課>マタイ25章31~46節「無意識の奉仕」

この箇所でイエス様は、「どのような者が天の御国に入るにふさわしいか」について語っておられます。

すべての人は、永遠のいのちである天の御国に入りたいと願っています。しかし、イエス様は「すべての者が、天の御国に入るわけではない。」と言っておられます。

マタイ7章21節でイエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」と言われました。

そのイエス様が言われる「わたしの父のみこころ」が、この箇所で示されています。

イエス様は40節で『これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』と言われています。私たちの周りにも、困っている兄弟姉妹方はおられます。

私たちは、その困っている兄弟姉妹方を助けたいと思います。そして、何人かの方々は実際に助けの手を伸べておられます。

その助けの手を伸べた方々は、「この行いは、神様がよろこんでくださる」との思いでされる方はおられません。純粋に、困っている兄弟姉妹を助けたいとの思いで手を差し伸べられるのです。

でも、その行いを神様は見ていてくださり「あなたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、‥」と言ってくださるのです。

そのような行いは、常にその心をイエス・キリストに向ける信仰者が無意識的に行う小さな奉仕です。

神様は、そのような小さな行いをも忘れずに報いてくださるのです。

それとは逆に、その心がイエス・キリストに向いていない者たちは、小さな困っている兄弟姉妹を助けようとはしません。その小さな人々を助けても、自分の栄光を現すことにならないからです。

それで神様はそのような者たちに向かって「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、‥」と言われるのです。

ここでイエス様は、天の御国に入るにふさわしいものは、小さな兄弟姉妹方に助けの手を差し伸べるものであり、

表向きは、いつも大きな声で「主よ。主よ」と叫びながら、実際は自分のことばかり考えている者が、天の御国に入ることはないと言われているのです。

今、私は八鹿教会の中で、小さな兄弟姉妹方を助ける小さな手が幾つも伸べられていることを感謝いたします。

そのような小さな手を差し伸べる人のことをイエス様は「わたしの父に祝福された人たち」(34節)と呼んでくださいます。

教会の中に、ますます神様の祝福が満ち溢れますように願っております。

アーメン

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