<讃美歌>讃美歌267番「鉄のとびらよ」

 <聖書日課>マルコ16章9~20節「主に生かされる弟子として」

マルコの福音書は、16章8節で終わっており、この部分(9~20節)は、比較的初期に追加されたとする説が有力です。誰が、どのような目的で追加したのか分かりません。しかし、8節までで終わりだとすると、他の福音書と比べて

中途半端な終わり方との感じがします。この追記部分で明らかにされていることは、

・復活されたイエス様が、どのようにご自分を弟子たちに示されたか。

・復活されたイエス様が、弟子たちに何を語られたか、

・そのことばを聞いて、弟子たちは何をしたか、 です。

私たちは、ここから私たちが何を聞き、何を教えられるべきかをはっきりと受け止めなければなりません。私たちが、はっきりと教えられるべきことは「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。

しかし、信じない者は罪に定められる」ことです。

人は、生まれながら罪を持っているため、そのままでは救われません。そのままでは罪に定められるのです。救われるとは、罪のない者とみなされることです。

そして、イエス様の弟子である私たちがなすべきことは、「至る所で福音を宣べ伝える」ことです。(20節) それは、私たちが、救われたことをどれだけ喜んでいるかによります。

一人ひとりの信仰者の喜びは、教会全体の喜びとなり、教会が生き生きとしたものとされます。

最近ある人が私にこんなことを話してくれました。

「普段通っている教会は、なんとなく雰囲気が良くない。それで、ちょっと別の教会に出席した。

その教会に入った途端、明るい雰囲気を感じることができた」と。

別の教会に出席する/しないの良し悪しは別として、八鹿教会も新しくやって来た人に

「あゝ、この教会の雰囲気は明るい」と感じてもらえる教会であり続けたいと願っています。

そのために、私たち一人ひとりが、イエス・キリストの永遠のいのちに生かされていることを

もう一度、再確認する必要はないでしょうか。

皆様方が、復活のイエス・キリストを証しする弟子として、生かされますように祈っております。

アーメン

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