アウグスブルグ信仰告白

主の枝 特別号:「ルーテル教会の信条書」−信仰告白について− より

第一部 主要信条

第一条 神について

われらの諸教会は、一致してかく教える。神の本質の一なることと、三つのペルソナとに関するニケア会議の教令は、真実であり、疑わずして、信ぜられるべきである。すなわち永遠にして、分たれずして非形体的、無限の能力、智恵、善性をもち、見えるもの、見えざるもの、すべての創造者にして保護者に在す神なる一つの神的本質が存在する。しかも本質と能力を同じくし、共に永遠である。父・子・聖霊という三つのペルソナが存在する。そして、われらの諸教会は、教父たちが、この事柄に関して用いてきた意味で、ペルソナという語を用いるが、それは他のものにおける一部、あるいは、一つの性質を意味するのでなく、自存するものを意味するのである。

われらの諸教会は、この条項に反対して起こったすべての異端を排撃する。善と悪の二つの原理を措定するマニ教派のごときがそれで、ワレンティアヌス派、アリウス派、エウノミウス派、マホメット教徒、その他これに類するすべてのものも同様である。われらの諸教会は、また、新旧サモサタ派を排撃する。彼らは、一つのペルソナのみの存在を主張する時、修辞学者流に、ずるくもまた不正に、み言葉と聖霊とをもてあそび、み言と聖霊とは別個のペルソナではなくて「み言」は語られた言(verbum vocale)を意味し、「み霊」は、被造物における働き(motus)を示すという。

第二条 原罪について

われらの諸教会は、また、かく教える。アダムの堕罪以来、自然によって生まれる人は、ことごとく、罪をもって生まれる。すなわち神をおそれず、神への信頼なく、肉慾をもっている。そして、この疾病すなわち原初の過誤は、まことに、罪であって、洗礼と聖霊とによって再生しないものの上に、今でも罰をあたえ永遠の死をもたらすのである。

われらの諸教会は、ペラギウス派および他の諸派を排撃する。彼らは、この原初の過誤が罪であることを否定し、またキリストの功績とめぐみとの栄光を減少しようとして、ひとを自らの理性のカによって、神の前に、義とされ得るものと考える。

第三条 神のみ子について

また、われらの諸教会は、かく教える。み言、すなわち、祝福せられた処女マリヤの胎の中で、人性をとり給うた神のみ子は、単一なるペルソナの中に、不可分的に結合した二性、すなわち神性と人性とがあり、一人なるキリストは、真の神であって、真の人であると。彼は処女マリヤから生まれ、まことに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られたもうた。これは父をわれらにやわらがせ、原罪だけでなく、人間の現実的罪のことごとくに対しても、犠牲となろうとしたもうたのであった。

このキリストはまた、「よみ」にくだり、真実に三日目によみがえられた。その後、彼が天に昇られたのは、父の右に座して、永遠に支配し、被造物ことごとくを統御されるがため、また聖霊を信ずる者の心におくってかれらを聖化されるためであった。聖霊は信仰者を治め(聖化し、純化し、強め)、慰め、活かし、悪魔と罪の力に対して彼らを守られるのである。

この同じキリストが生ける人と死んだ人とをさばくため、公に再び来られることは、使徒信条の宣言する通りである。

第四条 義とせられることについて

また、われらの諸教会はかく教える。人は自分の力、功績、或は、業によって神の前に義とせられることはできず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により義とせられる。その時、人々は恩恵の中に受け入れられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなられたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神はみ前に義と認められるのである(ローマ3章、4章)。

第五条 教会の役務について

われわれがこの信仰をうるために、福音を教え聖礼典を行なうべき役務が設定せられた。

み言と聖礼典とによって、いわば媒介によるかのように聖霊が、与えられるからである。聖霊は、み旨にかなう所と時に従って、福音をきく者の内に信仰を起こされる。すなわち神は、われらの功績のゆえではなく、キリストのゆえに、恩恵に受け入れられたことを信ずる者を、キリストの故に義とされるのである。

われらの諸教会は、アナバプテスト派やその同類を排撃する。彼らは、聖霊が、福音のみ言なしに、自らの準備や行為によって、ひとびとに与えられると考えている。

第六条 新しい服従について

また、われらの諸教会はかく教える。この信仰は、必ず善き実をむすぶものであり、また、神から命ぜられた善き業をするのは、みこころのためであって、その業によって、神の御前に義とせられるに値すると確信するためではないと。

罪の赦しと義認とは、信仰によって把握せられるからである「あなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、わたしたちはふつつかな僕ですと言いなさい」(ルカ17:10)とのキリストのみ言が証言するように。

教会の古代の学者達も、同様のことを教えている。すなわちアンブロシウスは「キリストを信ずる者は業でなく、信仰のみによって、無代価で、罪の赦しを受けて、救われるということは、神の定め給うところである」と言っている。

第七条 教会について

また、われらの諸教会は、かく教える。唯一の聖なる教会は、時のつづく限り、つづくべきものであると。さらに、教会は、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである。

そして教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行に関する一致があれば足りる。また、人間的伝承、人間によって設定せられた儀式、或は式典がどこにおいても、同じでなければならぬことはない。「信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべての者の父なる神は一つなり」(エペソ4:5〜6)とパウロもいっている通りである。

第八条 教会とは何か

教会は本来、聖徒と真の信仰者の会衆であるが、しかも、この世においては、多数の偽善者と、悪しきキリスト者が、混合しているゆえに、敬虔ならざる悪しき人によって、執行せられる聖礼典も有効である。「学者とパリサイ人とはモーセの座を占む云々・・・」(マタイ23:2)とキリスト御自身が示しておられるように。聖礼典とみ言とはたとい悪人によって提供されるとしても、それらはキリストの設定と命令のゆえに有効である。

われらの諸教会は、ドナチスト派とその同類とを排撃する。彼らは、教会で悪しき人の役務を用いることの不可なること、また、悪しき人が役務を用いた時、それは無効なりと考えた。

第九条 洗礼について

洗礼について、われらの諸教会はかく教える。洗礼は救に必要であり、そして洗礼によって神の恩恵が提供せられる。また幼児は、洗礼を受けるべきであり、彼らは洗礼によって、神にささげられ、神の恩恵の中に入れられる。

われらの諸教会はアナバプテスト派を排撃する。彼らは幼児の洗礼を許さず、また幼児は洗礼なくして救われると主張する。

第十条 主の晩餐について

主の晩餐について、われらの諸教会は、かく教える。キリストのまことの身体と血とは主の晩餐においてパンとぶどう酒という形態の下に、実際現在し、そこでわけあたえられ、そして受領される。われらの諸教会は、これと異ることを教える者を否認する。

第十一条 懺悔について

懺悔について、われらの諸教会は、かく教える。個人の赦罪宣言(absolutio privata)は諸教会内で保持さるべきである。しかし、懺悔においてすべての罪過を列挙することは、必要でない。なぜなら、詩篇に「だれが自分のあやまちを知るだろうか」(19:12)とあるように、それは不可能であるから。

第十二条 改悔について

改悔について、われらの諸教会は、かく教える。洗礼後罪を犯した者は悔改める時はいつでも、罪の赦しを得る。また教会は、悔改めに至る者には赦罪宣言を与えるべきである。

さて改悔は、本来二つの部分から成り立っている。一は、痛恨、すなわち罪を認めて良心をさされる恐怖。他は、信仰である。信仰は、福音あるいは赦罪宣言から生じ、キリストのゆえに、罪のゆるされたことを信じ、良心を慰め、良心を恐怖からまぬがれさせる。ついで、改悔の実なる善き業が必ずつづくのである。その場合、よき業はバプテスマのヨハネが「悔改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)といっているように悔改めの果たるべきである。

われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する。彼らは、ひとたび義とせられたものが、聖霊を失うこともあり得ることを否定し、また、或る者は、この世において、罪を犯し得ないまでの完全に至ることができると主張する。ノヴァチアヌス派もまた排撃せられる。彼らは、洗礼後、罪を犯した者には、たとい彼らが再び悔改めても、赦罪宣言を拒否した。また、彼らは罪の赦しが、信仰によって得られることを教えないで、われらの償いによって得られると教える。

第十三条 聖礼典の使用について

聖礼典の使用について、われらの諸教会は、かく教える。聖礼典は、ひとびとの間における信仰告白のしるしとなるだけでなく、むしろ、われらに対する神のみ旨の標識、あかしとなるように、また、これを用いる者のうちに、信仰を、かきたて、また、これを堅くしようとして、定められたのである。それゆえ、ひとは、聖礼典によって提供せられ、宣言せられる約束を信じる信仰が、加えられるように、聖礼典を用いなければならない。

従って、聖礼典は、施された業によって(ex opere operato)義となすと教え、聖礼典を用いるにあたって、罪の赦しを信ずる信仰が、要求せられることを教えない者を、われらの諸教会は排撃する。

第十四条 教会の職制について

教会の職制について、われらの諸教会はかく教える。何人も、正規に召されたものでないならば、教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行してはならない。

第十五条 教会の儀式について

人間によって考案せられた教会の儀式について、われらの諸教会はかく教える。罪なくして守り得られ、また教会内の平穏とよい秩序とに益となるもの、すなわち特定の祝日、祭日、またそれに類するものは守られるべきである。

しかしながら、この種の事柄については、このようなことを厳守することが、救に必要であるかのように考えて、良心が重荷をおわされるべきでない。

神をなだめ、恩恵に値し、罪に対して償いの行為をするために設定せられた、人間的伝承は、福音とキリストの信仰の教理とに反していることを、ひとびとに注意すべきである。故に、恩恵に値し、罪の償いをするために設定せられた、食物や暦日に関する伝承その他この類のものは、無用であって、福音に反している。

第十六条 公民生活について

公民生活について、われらの諸教会は、かく教える。正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の律法によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法定取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は子女を婚姻させることは正当である。われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する、彼らはキリスト者に、以上の公職を禁じる。われらの諸教会はまた、福音的完成をば、神の畏れと信仰とにおかないで、公職を放棄することにおくひとびとを排撃する。なぜなら福音は、心の永遠の正しさを教えるからである。同時に、福音は国家或は家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、愛を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。ただし、彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒5:29)。

第十七条 審判のためキリストが再び来り給うことについて

また、われらの諸教会は、かく教える。終末の日に、われらの主イエス・キリストは、審判するため現われ、死人をことごとくよみがえらせ、敬虔な者と選ばれた者には永遠の生命と、つきない喜びとを与え給うが、不敬虔な者や悪魔には限りない苦悩を宣告し給うであろう。

われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する。彼らは、罰に定められた者も悪魔も永遠の苦悩を持たないであろうと考える。われらの諸教会はまた、現在、ユダヤ教的見解を流布して、死者の復活に先立って、敬虔な者がこの世の王国を占領し、不敬虔な者は、至るところで制圧せられるだろうという人々をも排撃する。

第十八条 自由意志について

自由意志について、われらの諸教会は、かく教える。人間の意志は、公民的の正義を行い、理性が把握するような事柄を選ぶいくらかの自由を有する。しかし聖霊なくしては、神の義、すなわち霊的正義を行う力をもたない。なぜなら生まれつきのままの人は神の御霊のことを理解しないからである(1コリント2:14)。しかし、み言によって聖霊を受ける時、このことが、心の中で行われる。

これらのことは、聖アウグスチヌスが、その著「ヒポグノスチコン」第三巻の中で多く言うところである。すなわち「われらはすべての人に自由なる意志が存在することを認める。なぜなら彼らは生来の悟性と理性をもつから。しかし、それは神なくしては、神にかかわる事柄を、はじめ、或は確実に完成する能力なく、この世に属する業においてのみ、善或は悪を、選択する能力を持つのである。私が言う、善とは、自然の善性から出るものをいうので、畑で労働し、飲食をし、友を持ち、衣服を手に入れ、家を建て、妻をめとり、家畜を飼い、種々善いことの技術を習得しようとし、現世にかかわるすべてのよいことを望むことなどである。これらのものはことごとく、神の管理外にあるのではなく、それらは、神から、また神によって存在し始めたのである。しかし、私の言う悪とは偶像を礼拝しようとすること、殺人を犯そうとすることなどである。

われらの諸教会は、ペラギウス派や他の同類を排撃する。彼らは聖霊によらなくても、生まれながらの力だけで、何物にもまさって神を愛し、また、神の戒めをわれらの行動の本質にふれる程に、実行することができると教える。天性は、或る程度まで外面的な業をなすことはできる(窃盗や殺人から、手をさし控えて置くことはできるから)、しかし、それは、神畏敬、神信頼、貞潔、忍耐などのような内面的行動をなし得ないからである。

第十九条 罪の原因について

罪の原因について、われらの諸教会は、かく教える。神は、自然を創造し、また保存し給う、しかし罪の原因は、悪しき者、すなわち、悪魔と不敬虔な者の意志である。この神のたすけを受けない意志は、神に背く。キリストが「悪魔は、偽り者であり、偽りの父である」(ヨハネ8:44)と言い給う通りである。

第二十条 信仰と善き業について

わが教師たちは、善き業を禁じるといって、誤って非難せられる。その誤っていることは、十戒に関するわが教師たちの文書や他の同一論旨のものを見れば、彼らが各種の生活や義務について、どのような種類の生活、また、各職業において、どのような行為が、神をよろこばせるかを、教えて有効であったことが、明らかになるから。これらの事柄について、以前には説教者たちがほとんど教えず、ただ、彼らは或る幼稚な不必要な行為、例えば、祝祭日、定例断食、兄弟団、巡礼、聖人崇拝、珠数の使用、修道生活、などを強要してきた。これらについて警告を受けてきたわれらの敵は今やこれまでのように、これらの不必要な行為を説かない。その上、彼らは、これまで全く語って来なかった信仰について語りはじめている。そこで今や彼らは、われわれ人間は行為のみによっては、神に対して義とせられないと教え、それにキリストへの信仰を付加えて、信仰と行為とがわれらを神に対して義とせしめるのだと語っている。この教理は、以前の教理よりも許し得べきものがあり、彼らの古い教理よりも人に慰めを与え得るものである。

ゆえに、教会の主要教理たるべき信仰による義についての教理が、説教において全く語られなかったことを何びとも認めざるを得ないように永らく放逐されており、ただ行為の教理だけが教会内で説教されていたので、わが教師たちは信仰について次のように諸教会に勧めた。

第一、われわれの行為は神と和解し、或は罪の赦しと恩恵を得るのに値しない。しかし、われらが父と和解する唯一の仲保者、また和解者であられる(1テモテ2:5参照)キリストのゆえにわれらは罪赦され恩恵の中に受け入れられると信じる時、ただ信仰によってのみこれを得るのである。従って行為によって、恩恵に値すると臆断する者は、キリストの功績と恩恵とを軽蔑し、キリストが御自身について「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言い給う福音に反して、自分のカによって神への道を求めるのである。

信仰に関するこの教理は、パウロが至るところで明白に説いているものである。特にエペソ2:8〜9「あなたがたの救われたのは実に恵みにより、信仰によるのである。決して行いによるのではない。」をみよ。

そして、われらによってパウロの新解釈が案出されたのであると、誰かが、こざかしくも言うことのないように、この全主旨は、教父達の証言にささえられている。アウグスチヌスは、多くの書物の中で、行為の功績に反対して、恩恵と信仰の義を弁護する。また聖アンブロシウスもその著「異邦人の召命について」その他の中で、同様に教える。この「異邦人の召命について」の中で、彼は次のように言っている「もし恩恵によって義とせられることが、先行の功績によるものとするならば、それは与え主の無代価の賜物ではなくて、労働者に当然支払う報酬となるので、キリストの血による贖罪は、価値のないものとなり、人間の行為の優位性が、神の憐みに場所をゆずることをしないであろう」と。

この教理は、実際に経験しない者によって軽べつせられても、しかも、なお、敬虔な、恐怖している良心は、それが、最大の慰めをもたらすことを、身に味い知るのである。なぜなら良心は、どのような行為によっても安心立命を得ず、キリストのゆえに、恩恵の神を得ると確信する信仰によってのみ、平安を得るのであるから。「信仰によって義とされたのだから、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)とパウロが教えているとおりである。この全教理は、恐怖におののく良心のたたかいに関すべきもので、このたたかいから離れては、理解し得られない。従って、キリスト教の正義は、この世の義や哲学的な義のほかの何物でもないと夢想するこのたたかいに無経験な人や世俗的な人は、この事柄について、誤った判断をする。

これまで良心は、行為の教理になやまされていて、福音から慰めを聞くことがなかった。そのため良心は、或る者を、砂漠に、あるいは、修道院に追いやり、そこで修道生活によって、恩恵に値するものたらんと望んだ。他の者は、他の行為を考案して、それによって、恩恵に値し罪を償おうとした。それゆえに、恐怖している良心が、慰めに欠くるところなく、キリストに在る信仰によってのみ、神の恩恵と罪の赦しを得ることを知らんために、キリストに対する信仰のこの教理を説き、また更新することはどうしても必要であった。

さらに、われらが警告することは、ここに云う信仰ということばは、キリストが十字架につき、死人のうちからよみがえられたといういわゆる物語を信ずるところの、悪しき人や、悪魔も持っているような信仰(ヤコブ2:19参照)を意味するのではなくて、われらはキリストによって恩恵と罪の赦しを得るのだということを信ずる真の信仰を意味するのである。

さて、キリストによって、恩恵の父をもつことを知る人、この人こそ、真に、神を知る者である。神が自分を守って下さることを知る者は、神を愛し、また神をよび求める。その人は、異邦人のように、神なしには、存在しないのである。悪魔と悪しき者は罪のゆるしというこの信条を信ずることができない。それゆえに、彼らは、神をその敵としてにくみ、神を呼びもとめず、また、神から何のよきものも期待しない。アウグスチヌスも、信仰について同じように、読者にすすめをして、信仰という語は、聖書の中では、悪しき者の中にあるような種類の知識と解せられず、不安の心を慰め、ふるいおこす信頼と解せられると教えた。

更に、われわれは教える。善きわざをすることは必要である。そのことはそれによってわれらが、恩恵に値すると期待するためでなく、神のみこころのゆえにである。信仰によってのみ、罪の赦しと恩恵とが得られる。また、聖霊は、信仰によって与えられているのであるから、われらの心は新にせられ、善き行為を生じ得るように新しき心情を身につける。アンブロシウスも、かく言う「信仰は善き意志と正しき行為の母である」と。なぜなら、人の力は、聖霊なくしては、不敬虔な感情にみち、神の御前に、善い行為をすることができないほどに弱いからである。その上、人の力は、人々をさまざまの罪、卑俗な意見、また、大罪におとし入れる悪魔の権能の中にある。正直に生きようと努めながら、しかもそれをなし得ずして、多くの明白な大罪によって汚されている哲学者達に見られる通りである。人が、信仰なく、聖霊なしにおり、人間自身の力のみで自己を支配する時、人の弱さは、このようなものである。

このゆえに、この信仰の教理は、善きわざを禁ずるものとして非難せらるべきではなく、いかにして善き行為をなし得るかを教えるゆえに、むしろ大いに、推奨せらるべきであることが容易に分るであろう。なぜなら、信仰なしには人間の本性は、十戒の第一戒或は第二戒の行為を決して実行し得ないからである。信仰なくしては、人間性は、神をよび求めず、神から何も期待せず、十字架をになわずして人からの助けを求め、人の助けに信頼する。かくして、神に対する信仰と信頼がない限り、あらゆる肉の思いと人間的な考えが心を支配するという結果になる。それゆえ、キリストはいい給う「わたしから離れては、何一つできません」(ヨハネ15:5)と。また、教会は歌う「汝の御力なくば、人の内に何もなし、無垢なるもの何もなし」と。

第二十一条 聖徒崇拝について

聖徒崇拝について、われらの諸教会は、かく教える。われらの職分に基づいて、聖徒たちの信仰や善き業に倣うように聖徒を記念すべきである。たとえば、皇帝がその国土からトルコ人を駆逐するための戦をするにあたって、ダビデの例にならうがよろしい。これは、両者が王であるから。しかし聖書は、聖徒をよび求めること、或は、聖徒の助けを求めることを教えない。仲保者、和解者、大祭司そして執成者で在し給う一人のキリストをわれらに提供するからである。このキリストが、呼びもとめられるべきであり、また、キリストは、われらの祈をきくことを約束し給うたのである。そして、このような礼拝、すなわち、あらゆる苦難の中でキリストがよびもとめられることをもっとよろこび給うのである。「もし、罪をおかす者があれば、父のみもとには、助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」(1ヨハネ2:1)

以上は、われらの教理のおおよその総括であって、この中で知られることは、聖書にもとるものは何もなく、あるいは、公同教会にもとるものなく、あるいは、教父達の著者から知られるかぎり、ローマ教会にすらもとるものは何もないことである。このような事情であるから、われらを、異端者と見なさるべきであると主張する者達は、われらを過酷に判断するものである。しかし、紛争は、確かな根拠もなしに、諸教会に、潜入した悪弊に関するもので、これらの事項について、幾分の相違があるにしても、なお、われらが今、提出した信仰告白のゆえに、われらを寛恕するという寛仁は、監督諸賢にふさわしいことであろう。それは、教会法規でも、いたる所で同じ儀式を要求するほどに厳格ではなく、あるいは、いつの時代でも、全教会の儀式が同一ではなかったからである。とはいえわれらの間では、大部分、古来の儀式が熱心に守られているのである。なぜなら、すべての式典、昔設定せられたすべての事柄が、われらの諸教会において廃止せられているということは、悪意ある中傷であるからである。しかし、公の不満は、悪弊が一般に用いられている儀式に結びついていることであった。これらは、よき良心をもっては、承認し得られないので、ある程度まで修正せられたのである。


第二部 改正せられた悪弊を詳論した条項

これまでのところで明らかになったことは、われらの諸教会が、いずれの信仰条項においても、聖書の教えと、教会の共通の教えから逸脱していないことであった。さてわれらが、一部は、時の推移と共に潜入し、一部は暴力によって導入せられた若干の悪弊を正したことについても、陛下がこれを良く理解して下さることをお願いする。われわれが、このような改正をしたのは、非キリスト者的なやり方でも、軽薄なやり方でもなく、神の戒めに従って、そうしたのであり、それぞれの場合にわれわれの理性が変更をすることを示唆し、状況がやむなくそうさせたのであった。

第二十二条 主の晩餐におけるパンとぶどう酒について

主の晩餐において礼典のパンとぶどう酒という二つのかたちが信徒に与えられる。なぜなら、この慣習は「みな、この杯から飲め」(マタイ26:27)との主の御命令によっているからである。ここで、キリストは明白にみなのものがこの杯から飲めと命じておられる。このことは、ただ司祭にだけ属するものだと誤解されないように、パウロはコリントの全教会員が、パンとぶどう酒を受けたと言っている(1コリ11:27)。また、このやり方は教会内で長い間続けられてきた。その後、何時、だれによってこのやり方が変更されたのか判らない。ともかく、クザーヌ枢機卿はこのような変更が認められたと言っている。キプリアヌスは数か所において杯が信徒に与えられたことを立証する。聖ヒエロニムスも同様に「司祭は聖餐式に奉仕して、キリストの御血を平信徒に配分する」と証言している。教皇ゲラシウスさえも聖礼典を分けてはならないと命じている。それで、聖別について一種配餐の慣習はごく最近のものである。

しかし、このような慣習は神の教えに反し、また、古来の教会法典にも反している(真理の章及び、そのあとの文章)。それで、この習慣は聖言に反するだけでなく、古代からの教会法典及び、教会の慣習にも反している。ゆえに、キリストの定められたように、パンとぶどう酒の両方を受けようと願う人々の良心を圧迫してパンだけを配餐するように強制してはならない。一種配餐は、キリストの定め給うたところに反するゆえに、われらは従来行なわれてきた方法をやめることにする。

第二十三条 司祭の結婚について

司祭の不道徳な生活については強く、一般的な不平があった。そのために、教皇ピウスは「司祭に対し、結婚が禁じられたいくつかの理由があった。しかし、現在では、結婚が再び許さるべきもっと重大な理由がある」と言ったと伝えられている。これはプラティナの記しているところである。それゆえにわれらの司祭たちは、これらの公然の醜聞を避けようとして妻をめとったし、また、婚姻を結ぶことは正当である。まずパウロは「不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ちなさい」と言い、さらに、「情の燃えるよりは結婚する方がよいからである」と言っている(1コリ7:2、9)。第二にキリストは「その言葉を受け入れることができるのはすべての人ではなく」(マタイ19:11)と言って、すべての人が独身生活を送るに適しているわけではないと教えている。なぜなら、神は人間を男と女とに造られたからである(創1:28)。神の特別の賜物と恩寵なしには、独身生活を送ることは難かしいし、キリストは、人間性の弱さをよく見抜いておられたのである。

創世記一章二七によれば、神は男と女を造られた。そして、誓いや決心、神の定められた創造の秩序を破ることは不可能である。

故に独身生活に適しない人は結婚すべきである。なぜなら人間のどのような法律も、誓願も神の戒めや掟を排除することはできないからである。これらの理由によってわれわれの司祭たちは妻帯したのである。また古代の教会では、司祭たちが妻帯しておったことは周知のことである。パウロも「監督はひとりの妻の夫であり」(1テモテ3:2)と言っているからである。また、ドイツにおいてはおよそ四百年前に至ってはじめて、司祭たちはむりやりにも独身生活をするよう強要せられた。彼らはそのことに全力をあげて激しく真剣に反抗した。この問題に関するローマ教皇の勅令を発布しようとしたマインツの大監督は、激昂した全司祭たちの暴動のため、あやうく殺されようとしたほどである。また、この禁止令は厳しく強制され、司祭たちに、将来の結婚が禁じられたばかりでなく、当時、長く結ばれていた結婚も破棄された。これは神と人のすべての法に反しているのみならず、教皇たち自身が作った教会法典にも、重要な教会会議にも全く反するものである。また、世の経過と共に次第に人の本性が脆弱になっていく時、これ以上の悪行為がドイツに拡がらないように注意することは適切なことである。更に、神は人の弱さを救い、不品行におちいらぬように結婚を定められた。末の世にあっては、人の弱さのために昔の厳格さは時々は緩和せられるべきであると教会法典自体も言っている。この間題についても、その主旨が実行せられることが切に望ましい。また、これ以上結婚が禁ぜられるならば、諸教会はついには牧師に不足するに至るであろう。結婚してもよいという神の戒めが存在し、それについての教会の慣例も周知のことであり、しかもなお、独身生活が、きわめて多くのあやまちや、姦淫や他の大罪をもたらしているにもかかわらず、なお、司祭の結婚を禁じることは、何ものにもまさる残酷さである。神は結婚を尊ぶように命じられた。異教徒の間でさえ、よく秩序立てられた国の法律によって結婚は、はなはだ尊ばれた。しかし、今や人々と、そしてまた司祭までが結婚したという理由だけで、教会法典の主旨に反して、無惨にも死刑に処せられる。パウロは結婚を禁ずるものを悪魔の教え(1テモテ4:1、3)と呼んでいる。結婚の禁止が、このような刑罰によって維持されている限り、このことが今や容易に理解し得るのである。

しかし、いかなる人間の法律も、神の戒めを除き去ることができないと同様に、いかなる誓願も決して神の戒めを除き去ることはできない。聖キプリアヌスもまた、誓約した貞潔を守らない婦人は結婚せよと忠言を与えている。彼の言葉は次のとおりである(書簡集第一巻第十一)「彼らが忍ぼうとせず、あるいは忍ぶことができなければ、肉欲によって火の中におちいるよりも結婚する方が、彼らにとってはよい。すくなくとも、その兄弟姉妹につまづきを与えてはならない」と。また、教会法典さえ、未成年期に誓約した者に対しては、幾分の緩和を示し、今日までに一般に慣習となって来ている。

第二十四条 ミサについて

われらの諸教会は、ミサを廃したとして非難せられたが、これは、誤りである。なぜなら、ミサはわれらの間にて保持せられ、最高の尊敬をもって実行されているからである。すべての儀式はこれまでどうり行なわれているが、例外としてラテン語で歌われた場所に、ところどころドイツ語の讃美歌が挿入せられた。

それは、民衆を教えるためになされたものである。なぜなら、儀式というものは、無知な者が、教えられることが必要である。パウロは教会内で普通の人のことばを使用するように命じている(1コリ14:2、9)。そして教会員はいっしょに聖餐式にあずかるようにさだめられた。そのことは公の儀式に対する尊敬と敬虔とを増すためである。そこでは、まず、お互いに吟味がなされ許可されたものでなければ、聖礼典にあずかることが許されないからである。その上、人々は聖礼典の価値とその効用について知らしめられ、それがどのように大きな慰めを不安の良心にもたらすかを教えられて、いよいよ、彼らが神を信じ、そして、神からすべての良きものを期待し、求めるようになる。この礼拝は神を喜ばせ、このような聖礼典の用い方は神に対する敬虔を養うのである。それゆえにミサがわれらの敵の間において、われらにおけるよりもまさって、信仰的に実行されているとは思えない。

しかし、ミサが金もうけのために用いられて、低劣にもけがされているということが、永い間、すべての善良な人々の公然にして最も憂慮すべき不平となっていたことは明らかである。この悪弊が、どれほどの範囲まで諸教会内に伝播したか、また、どのような性格の人々によってミサが、単に報酬や賃金のためだけに使われて来たか、また、教会法典の禁制に反してどれほど多くの人々がミサを使用するかは、つまびらかにされているところである。しかし、パウロは主の晩餐を不当に扱う者達をきびしくいましめて「ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は主のからだと血とを犯すのである」(1コリ11:27)と言っている。われらの司祭たちがこの罪について警告せられた時、私誦ミサは、われらの間においては廃止せられたが、それは私誦ミサはほとんど金を目当てにしているということを知ったからである。

監督たちも、この悪弊について無知でなかったので、もし彼らが適当な時期にそれを矯正しておいたならば、今日の論争はもっと少なくてすんだであろう。これまで彼らは見ないふりをして多くの腐敗が教会内に潜入するのを許した。時すでにおそいが、今や彼らが教会の苦境について不平をいいはじめているのは、この混乱はこれらの悪弊そのものを原因として起こされ、それがもはや、これ以上許しておかれない程明白になったことを知ったからである。ミサについて、聖礼典について多くの論争があった。それを矯正することができ、またそうしなければならなかった者たちが教会においてずっと許しておいた、かくも永年にわたるミサの世俗化のため、世界は罰せられているのかも知れない。なぜなら十戒にも、それが記されているから。「主は、み名をみだりに唱えるものを罰しないでは置かないであろう」(出エジ20:7)また、世のはじめから神の定められたもので、ミサほど金もうけのために利用せられたものはなかった。

また、次のような意見が加えられて、私誦ミサを無限に増加させた。すなわち、キリストはその受難により、原罪の償いをなし、ミサを設定して、それによって赦される罪と死に値する罪とを問わず、日毎の罪にたして供えものをなされると言う。このことから、ミサは、その遂行そのもの(エクス・オペレ・オペラート)によって、生ける者と死せる者との罪を取り去るわざであるという、世間一般の意見が生じた。そこで彼らは多数に対して唱えられる一つのミサが特定の人に対する特定のミサと同等の効力があるかどうかという論争が起きはじめた。この論争は無数のミサを生じさせた。これらの意見についてわれらの教師たちは警告を与えて、それらは聖書から離れてキリストの受難の栄光を縮少するものであると主張する。なぜならキリストの受難は原罪だけでなく、また、他のあらゆる罪に対する供え物、また完全な償いであったからである。ヘブル書に、次のように言われている。「この御旨に基き、ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである」。また 「一つのささげ物によってきよめられた者たちを永遠にまっとうされたのである」とある通りである。聖書はまた教える、キリストのゆえにわれらの罪が赦されると信ずる時、われらはキリストに対する信仰によって神の前に義とせられると。さてミサがもし、エクス・オペレ・オペラートによって生ける者と死せる者の罪を取り去るとするならば、義とせられることはミサの行為によって来るものであって、信仰によって来るものではないことになる。これは聖書と反する教えである。

キリストは「わたしを記念するため、このように行ないなさい」(ルカ22:19)と命じておられる。それゆえに、ミサが設定せられたのは、聖礼典を用いる者の信仰がキリストによってどのような恩恵を受けるかということを思い起こし、また、恐怖している良心を引き立て、慰めるためである。なぜなら、キリストをおぼえるということは、キリストの恩恵をおぼえることである。また、その恩恵は真実、われらに提供せられていることを実感することである。また、その史実をおぼえるだけでは充分ではない。ユダヤ人や不敬虔な者もうわべだけでは、そのようにすることができるからである。それゆえにミサは慰めを必要とする者に聖礼典が与えられるように用いるべきである。アンブロシウスも「私はいつも罪を犯すから、いつも医薬を受けねばならない」と言っている通りである。

ミサは、このように聖礼典にあずかることであるが故に、われらは聖日毎に一つの共同のミサを守り、また他の日においても聖礼典を望む者がある時、それを要求する者にそれが与えられる。この慣習は新しく教会にもたらされたのではない。なぜなら、グレゴリウス以前の教父たちは私誦ミサについて何もいわず、彼らは共同のミサについてきわめて多く語っている。クリソストムスは言う「司祭は、日毎に聖壇に立ってある者を聖餐に招き、他をしりぞける」と。古い教会法典によれば、ある者がミサを祝い、その者から他の長老や執事たちが主のからだを受けたということが明らかである。なぜならニカイア教会法典のことばは次のようであるからである「執事らをして、その順序に従って、長老らの後に一監督、あるいは一長老から聖餐を受けさせよ」と。またパウロは聖餐に関して、一同が参加できるように「互に待ち合わせよ」と命じている(1コリ11:33)。

故に、われらのミサは聖書と教父たちに由来する教会の先例をもっているので、充分すぎる土台の上に立っている。ことにわれらの公けの儀式が大体、これまで用いられたものと同様に守られており、それをとやかく言うことはけっしてできない。ただ、ミサの数は大幅に減らしているが、それは、きわめて大きな、また、明白な悪弊の故に、その数が減ぜられることが疑いもなく益となるからである。なぜなら昔、最大の会衆をもつ諸教会においても、日毎にミサは祝われなかったことは三分史(第九巻・第三十八章)の立証するところである。すなわち「また、アレキサンドリヤにおいては、週の第四日目、また六日目に聖書が読まれ、博士らがこれを解説し、そしてミサを除いてすべてのことが行なわれた」。

第二十五条 告解について

告解はわれらの諸教会で廃止せられていない。なぜなら前もって吟味せられ、罪の赦しの宣言を受けた者でなければ、主の御からだを与えないことになっているから。また、人々は罪の赦しの信仰について、強く教えられている。この教えは、長い間ないがしろにされてきたことである。われらの信者たちは悔俊の秘蹟における罪の赦しの宣言は神のみ声であり、また、神の命令によって宣告せられるのであるゆえに、これを深く、尊重しなければならないと教えられている。「鍵の権能」が推奨せられ、また、それがどのように大きな慰めを恐怖せる良心にもたらすかをよく教えられている。また、神がその罪の赦しの宣言を、天からひびいてくる神の声として、われらが信ずる信仰を求められること、及びキリストに対するこの信仰はまことに罪の赦しを得、また、これを受けることも教えられる。

以前は償いの行為が必要以上にたたえられておって、信仰については何も語られなかった。この点についてわれらの諸教会は決して非難せられる面はない。改悔の教理が最も強くわれらによって取扱われ、また、鮮明せられることについては、われらの敵達も譲歩して認めているほどである。

しかし、告解について、われらの諸教会はこう教える。罪を数えあげることは必要ではない。また、罪をことごとく数えあげる心づかいで、良心に重荷を負わすべきではない。なぜなら罪をことごとく詳しく述べあげることは不可能であるからである。詩篇も「だれが自分のあやまちを知ることができましょうか」(19:12)と立証する通りである。またエレミヤも「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれをよく知ることができようか」(17:9)と言っている。詳しく述べあげられる罪でなければ赦されないとすれば、良心は決して平和を見出し得ない。人々はきわめて多くの罪を見ることも記憶することもできないからである。

昔の学者たちもまた、罪を数えあげることは必要でないことを立証する。教会の中でクリソストムスが言ったものとして引用せられていることは「あなたは、公衆の面前で自己を曝露するとか、他人の前で悔い改める必要はない。ただ、『汝の道を主にあらわせ』と言っている預言者のことばに従うことを望むのである。祈りをもって、まことの審判者である神の前に罪を告白せよ。舌によらずして良心の記憶をもって、自分の誤ちを明言せよ」である。ここでクリソストムスが罪を数え上げることを強制していないことは明らかである。また、教会法規注釈書(「悔改めについて」第五部コンシデレート)も、告解は聖書によって命じられておるのでなく、教会によって設定せられたと教えている。

それにもかかわらず、罪の放しの宣言のきわめて大きな恩恵の故に、また、それとならんで恐怖せる良心に与えるその他の効用の故に、告解はわれらにおいても保持せられる。

第二十六条 食物の区別について

以前には次のように考えられ、また、教えられてきた。すなわち、食物の区別とこれに類する人間の設定した伝承とは恩恵を得るに有効な業であり、罪に対する償いの行為であると。この根拠に立って、人々は日毎に新しい断食、新しい儀式、新しい修道院の教団、新しい祝日、および、これに類するものが設定せられて、諸教会の教師たちは、もし人々がこれを守るなら恩恵を得ることができると教えた。いさおを得るのに必要な儀式として、これらの行為を強要した。そして、もしこれらのいずれかを守らなかった場合、大罪だと言って、人々の良心をおびやかしたのである。この結果、多くの恥ずべき誤謬が教会内に生じたのである。

第一に恩恵と信仰の義に関する教理があいまいとなった。この教理は福音の主要な部分で、教会において最も高き位置を占め、卓越しておるべきである。それによって、キリストのいさおがよく認識され、そして、キリストの故に罪赦されたことを信ずる信仰が行為にまさって、また、他のすべての奉仕にまさって賞揚せられるようになるためである。パウロが律法と人間的伝承を取り去るのは、キリスト教の義はこのような業とは全く別なもの、すなわち、キリストの故にわれわれは恩恵を得ることを信ずる信仰を強調するためである。しかし、パウロのこの教えは食物の区別とこれに類した奉仕によって、恩恵と義に値し得るという考えをもたらしたところの伝承によってほとんど完全に窒息させられている。彼らの改悔の教理の中には信仰について何も述べられてなく、ただ、これらの償いの行為だけが語られておった。そして、改悔は全くこれらのものから成っているように思われた。

第二に、これらの伝承は、神の戒めをあいまいにした。なぜなら、伝承が神の戒めにまさって重んじられたからである。キリスト教生活とは全く、一定の祝日、儀式、断食および服装の遵守にあると考えられた。これらを守ることは、宗教的生活と完全な生活を構成する高貴な名称で呼ばれてきた。ところが、日常生活に関する神の戒め、すなわち、父が妻子を養い、母が子供を生み、君主が国家を統治すること等は少しも尊重されなかった。これらは世俗的、非宗教的な事柄で、あの光彩ある行事の遵守に比すれば遥かに下等なものと考えられた。このことによって、敬虔な良心は、はなはだしく苦しめられ、彼らは不完全な生活状態、すなわち結婚、公職、あるいは他の公民的任務に束縛せられていることを憂え、修道士やそれに類した者をあこがれ、この人たちの行事厳守の方が自分達の行為よりもまさって、神によみせられるものと誤って考えたのである。

第三に伝承は、良心に大きな危険をもたらした。なぜなら伝承のことごとくを守ることは不可能であるのに、人々は伝承遵守を必要な礼拝行事だと思ったからである。ゲルゾンは次のように記している「多くの人々が絶望に陥り、ある者が自殺したのは、彼らが伝承を守り得ないことを知ったからである」と。しかも、今にいたるまで彼らは信仰の義の慰め、あるいは恩恵の慰めを聞いたことはなかった。そこで彼らはスンマ(神学綱要)研究者や神学者等が伝承を蒐集し、また、人々の良心の重荷を軽くするために、手加減を加えようとしているのを見る。しかも、すべては充分に役に立たずして、かえって一層良心に落し穴をもたらすのである。諸学校と説教壇は伝承を蒐集するのに一生懸命で、聖書に触れる暇はなく、また、信仰について、十字架について、希望について、公民的な事柄の尊厳について困難なる苦しみの中にある良心の慰めについて、一層有益な教理を追求する暇をもたなかった。故にゲルゾンや他の神学者たちは、こうした伝承に関する論争に妨げられて、教理の一層すぐれた種類のものに思いをひそめることのできぬ苦衷を強く訴えている。アウグスチヌスもまた、この種の行事遵守によって人々の良心に重荷を負わすことを禁じ、人は伝承尊守を必須なことと考えるべきではないと、知るようにヤヌアリウスに忠告している。

それ故に、われらの教師たちはこの問題を軽卒に取扱ったと思われたり、あるいはある人が誤って想像しているように、監督たちに対する憎しみから論じたと思わるべきではない。伝承の誤解から生じたこれらの誤謬について、諸教会に警告する必要は大いにあった。なぜなら、福音はわれらが、教会の内で恩恵を信仰の義との教理をおしすすむべきことを強いるから。しかも、もし人々が自ら選んだ行事遵守によって恩恵を得るに値すると勝手に考えるなら、彼らはこのことを決して理解できないのである。

聖書の教師たちは、このように教えている。我らは人間の設定した伝承遵守によって恩恵を得るに値し、あるいは神と和解し、罪のあがないをなすことは出来ない。従ってこのような伝承遵守は、必要な礼拝行事だと考えてはならない。この上に我らの諸教会は、聖書からの証言を加える。キリストは慣例の伝承を守らなかった使徒たちを許して言われている「人間のいましめを教えとして教え、無意味に私を拝んでいる。」(マタイ15:9)と。故にキリストは無益な勤めを課されない。また、少し後にキリストはこうつけ加えておられる「口にはいるものは人を汚すことはない。」(11)。パウロもまたそのように言う「神の国は飲食ではなく」(ローマ14:17)。「だから、あなたがたは食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」(コロサイ2:16)と。また言う「『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。これらは皆使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教えによっているものである」(21:22)。また、ペテロも言っている。「しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。確かに、主イエスのめぐみによってわれわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」(使徒15:10〜11)と。ここでペテロは、モーセの設定したものと、他の人の設定したものとを問わず、多くの儀式で人の良心に重荷を負わせることを禁じている。またパウロは、食物の禁止を「悪霊の教え」(1テモテ4:1)と呼んでいる。なぜなら、このような行為を設定し、あるいはそれを行ない、それによって我らが恩恵を得るに値し、あるいはかかる奉仕なしにはキリスト者たり得ざるがごとくすることは福音に反するからである。

ここでヨヴィニアヌスのような敵は、我らの教師たちが鍛錬と肉の節制を妨害すると非難する。しかし全く別なことが、わが教師たちの著書から知られるであろう。なぜなら、たえず彼らは十字架について教えて、キリスト者は苦難に耐えねばならないと説いて来た。種々の苦難によって鍛錬せられ、キリストと共に十字架につけられることこそ実の真剣な、いつわりのない鍛錬である。

なお、我らの諸教会はかく教える。すべてのキリスト者は節制によって、あるいは身体的鍛錬と労働とによって自己を鍛えまた制御し、それによってぜいたくと怠惰とが自分を刺激して罪におとしいらせないようにしなければならない。この様な鍛錬によって我らが罪の赦しを受けるに値するものとなったり、あるいは罪のあがないをなさんとするのではない。また、この身体の訓練は数日間とか特定の日にだけではなく、たえず励行しなければならない。キリストが命令して「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。」(ルカ21:34)と。また「しかし、このたぐいは祈りと断食とによらなければ追い出すことはできない。」(マタイ17:21)とも言われている通りである。またパウロは言う「自分の体を打ちたたいて服従させるのである」(1コリ9:27)と。ここで明らかなことは、体を打ちたたくとは、その訓練によって罪の赦しを受けるに値しようとしたのではなく、霊的な事や自己の召しに応じて務めを行なうのにふさわしい体を持つためなのである。我らが排撃するのは断食そのものでなく、一定の日と一定の食物とを規定して、それらの行為があたかも必要な勤めであるかのごとくにして、良心に危険をおよぼすところの伝承である。

しかし、ミサの日課の順序や主要な祝日等のように、秩序維持に役立つような伝承は我らの間でも守られている。しかし同時に、このような奉仕は、神の前に(人を)義としないこと、またこれらの事柄を物議をかもさずに除去しても、それで罪があると考えてはならないと教える。人間の儀式におけるこのような自由については、教父達も知らないわけではなかった。なぜなら、東方教会において彼らはローマ教会と異なった時に復活祭を守った。そしてローマ教会がこの相違の故に、教会の分裂行動として東方教会を非難した時、かような慣習はどこでも同一でなければならないわけではないと、相手から忠告せられた。またエイレナイオスは「断食についての不一致は、信仰の一致を破壊しない」と言っている。その上教皇グレゴリウスは第十二差別論において、このような差異は教会の一致を破るものではないことを示唆し、また「三分史」第九巻には同一でない儀式の多くの例が集められ、次のような言葉が述べられている。「使徒たちの考えは祝日を設定することでなく、信仰と愛を教えることにあった」と。

第二十七条 修道士の誓願について

修道院の状態がどのようであったか、また教会法典に反してどのように多くのことが日毎にこの修道院において行なわれたかを想起するなら、修道士の誓願について我らの間において教えられていることが、一層よく理解せられるであろう。アウグスチヌスの時代において修道士の身分は自由なものであったが、後、規律が崩れた時、その規律回復のために、誓願があたかも周到に設計された牢獄のようにいたるところで課せられることになった。

誓願の外に多くの勤行が次第につけ加えられた。そしてこれらの束縛が、教会法典に反して多くの未成年者に課せられた。また多くの者は年齢において不足はなかったが、しかも自己の能力を判断し得なくて、無知のためにこの種の生活に入ったのである。こうして一度わなにかけられた者は、たとえ教会法典によって或者は解放せられ得たはずなのに、このわなの中にとどまるように強制されたのである。

そしてそのことは、弱い女性には一層の考慮が示されるべきであったのに、修道士の修道院よりも修道女の修道院でもっと厳しかったことである。

今日まで、この厳格さは、若い青年男女が生計のために修道院に投げこまれて、この処置からどのような不幸な結果が生じたか、またどのような醜聞がつくられたか、またどのようなわなが良心にかけられたか、それを見た多くの善良な人々を不快にさせたのである。彼らは、これほど重要な事柄に教会法典の権威が、全然無視せられ、侮られたことを悲しんだ。

これらの悪に対して、誓願に関する一つの意見が加えられた。それは周知のように、昔幾分思慮深い修道士までも立腹させたものであった。すなわち彼らは、誓願は洗礼に等しいと教えた。このような生活によって罪の赦しを得、神の御前に義とせられることに値すると教えた。彼らは修道生活は神の前に義に値するのみでなく、それ以上のものに値すると言い添えた。なぜなら、この生活はいましめを守るだけではなくて、またいわゆる「福音のすすめ」をも守ったからである。

このように教えて、修道誓願は洗礼にまさること、修道生活は人間の作った諸々の勤行などをせず神の戒めに従ってその職に従事する公吏、牧師等の生活にまさって功績に値すると教えた。これらの事柄はすべて明白であって、彼ら自身の書いた著書の中に見られるのである。

その後、修道院にどんなことが起こったか。以前、修道院は神学および教会に有益な学問の学校であった。そしてそこから牧師や監督が採用せられたのである。ところが今は事情が変わって来た。天下周知の事柄を詳説する必要は無い。以前は彼らは勉学のために集まって来た。しかし今や、神の恩恵と義を受けるに値するために設けられた生活のように誤って思い込んでいる。彼らは修道生活は完全な状態であると説き、それを神が定め給うた他のあらゆる生活よりもはるか上位におく。

それ故に、我らの教師たちの教理がこの点に関して一層よく理解せられるために、誇張なく繰り返し明らかに述べて来たのである。

第一、婚姻について我らの諸教会はかく教える。独身生活に適しない者が結婚するのは正当である。なぜなら誓願は、神の規定と戎めとを取り消すことはできないからである。神の戒めは「不品行に陥ることのないために男子はそれぞれ自分の妻を持ち」(1コリ7:2)と言う。また戒めだけでなく、神の創造の秩序から見ても、「人が一人でいるのは良くない」(創世2:18)と言われている。それ故、神の戒めと秩序に従う者は罪を犯すのではない。

これに対してどのような異議が唱えられ得るだろうか。人々に思う存分誓願の義務を賞讃させよ、しかし、誓願が神の戒めを取り消すことはできない。教会法典は教える「各誓願において、上位の権威が下位に優先する。」と。それ故に神の戒めに反するこれらの誓願は、全く力の無いものである。

さて、もし誓願の義務がどのような理由によっても変更され得ないとすれば、ローマ教皇もそれを免除することはできなかった。なぜなら人間が、全く神の法に属する義務を無効にすることは正当ではないからである。しかしローマ教皇は、思慮深くもこの義務には寛大さが適用されるべきと判断した。それ故に教皇が、しばしば誓願を免除したことを我々は文書で知っている。修道院から呼び戻されたアラゴン王の史実は周知のことであり、また現代においてもいくつかの例がある。

第二に我らの反対者はなぜ誓願の義務あるいはその効果を誇張するのか。しかも同時に、彼らは可能な事柄であり、自由で、また自発的に熟慮して選ばれるものであるべき誓願の本質そのものについてー言も語らない。しかし、どの程度まで終身の貞潔が人間に可能なのであるか、と言う事は知られていない。また、自発的に熟慮して誓願した者は何と少ないことであろう!青年男女は、判断能力を持つ前に誓願するよう勧奨せられ、時には強要までされるのである。

それ故、自発的に熟慮して誓頗するのでなければ、誓願の本質に反していることは全ての人に認められている以上、義務についてさほど厳格に主張することは適当な事ではない。

多くの教会法典は、十五歳以前になされた誓願を無効とする。なぜならその年齢以前には、今後永く続けられる生活について決定すべき充分なる判断があるとは思われないからである。別の教会法典は、人の弱さのため、もっと自由を認め、数年を加算し十八歳以前になされる誓願を禁じている。これらのうちどちらに従っても、大多数の者は修道院を去る理由を持っている。なぜなら、彼らの大部分はこの年齢になる前に誓願したのである。

最後に誓願を破ることが非難せられるべきであるとしても、すでに誓願を破って結婚してしまった人々の結婚は解消せられるべきであるということにはならないように思われる。

なぜなら、アウグスチヌスはこのような結婚は解消せらるべきことを否定しているからである(婚姻論第一章二十七問)。そして後にいたって他の人々が別のように考えたとはいえ、彼の権威は軽く評価せられるべきではない。

また結婚に関する神の戒めは、多くの者を彼らの誓願から解散するように見えるが、しかも彼らの牧師たちはまたそれらが無効であることを示すために、誓願に関する別の論証を提出する。なぜなら義認と恩寵を受ける資格を得るため、神の戒めなしに、人によって設定せられ選ばれた礼拝行事はことごとく悪いからである。キリストが「人間の戒めを教えとして教え、無意味に私を拝んでいる」(マタイ15:9)と言われているとおりである。またパウロがいたる所で教えていることであるが、神の義は人間によって考案された我ら自身の勤行や礼拝行事によって求められるべきではなくて、キリストの故に神によって恩恵に受けいれられることを信ずる者たちに信仰によって来るものである。しかし、人間によって作られた宗教行事が罪を償い、恩恵と義認に値すると、修道士達が教えて来たことは明らかである。これこそキリストの栄光を減じ、そして信仰の義をあいまいにし否定するものでなくて何であろうか。それ故、こうして一般に行なわれて来た誓願は悪しき行為であり、従って無効であるということになる。なぜなら神の戒めに反して立てられた悪しき誓願は価値が無い。なぜならまた(教会法典が言うように)いかなる誓願も、人を不正にしばりつけてはならないから。

パウロは言う「律法によって義とされようとするあなた方は、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。」(ガラテヤ5:4)と。故に誓願によって義とせられようと願う人々はキリストから離れ、恩恵から落ちる。なぜなら義認は誓願によると言うような人々は、本来キリストの栄光に属しているものを自らの行為によるとするからである。修道士達が誓願と行事遵守によって義とせられ、罪の赦しを受けるに価いすると教えて来たことは否定できない。実際、彼らは更に大きな不合理な事を創案して、他人に自己の行為の分け前を与えることができると言った。何人かが悪しき意図から、憎悪を刺激するためにこれらの事柄を詳述しようとしたならば、修道士たちさえも今恥ずかしく思っているいかに多くのことを列挙し得ることであろう。

なおその上、彼らはこれらの人が作り出した勤行はキリスト教的完全さの一段階であると、人々に思いこませた。これは義認を行為に帰することではないか。神の戒めなくして、人によって作り出された勤行を人々に説き、このような勤行が人を義とすると教えることは教会における重大なつまづきである。なぜなら教会において教えられるべきキリストの義は、清貧、謙虚および貞潔の姿を持ったこの驚くべき天使崇拝が人の眼の前におかれる時、あいまいとされるからである。

更に修道士のみが完全の状態にあると言うことを人々が聞く時、神の戒めと神のまことの礼拝がおおいかくされるのである。

なぜならキリスト教的完全さとは、心より神を畏れ、また深い信仰を抱き、キリストの故に我らは恵み深き神を有することを信じ、我らの職分に従って生じるべき一切の事において、神から助けを求め、また確かにこれに期待し、一方そとでは善行に励んで我らの天職に仕えることである。これらのことの中に真の完全と真の神礼拝とがあり、それは独身生活や、托鉢や、あるいは粗末な衣服には存しない。しかし人々はまた、修道院生活の誤れる推奨から多くの有害な見解を抱いている。彼らは独身生活が極端に賞揚せられるのを聞く。それ故良心のとがめを感じつつ結婚生活を送る。彼らは托鉢僧だけが完全であると聞く。それ故良心のとがめを感じつつ、財産を所有し売買する。彼らは復讐しないことは福音のすすめであると聞く。それ故或る者は、私生活において仇をうつことを恐れない。なぜならそれは、勧めであって戒めではないと聞くからである。他の者は、キリスト者は本来公職についたり、公吏になったりすることはできないものと判断する。

結婚や国家の政治をすてて、修道院の中に隠れた人々の実例が記録に残っている。これを彼らは遁世と呼び、一層神に喜ばれる生活の探究とよんだ。彼らは、神が自ら与え給うた戒めに仕えるべきで、人間によって考案された戒めに仕えるべきでない、と言うことを知らなかった。神の戒めを持つ生活こそ善にして全きたぐいの生活である。これらのことを人々に知らせる必要がある。またこの時代に先だちゲルゾンは、完全に関するこの誤謬を非難して、彼の時代において修道生活は完全の状態であることは新説であったことを証する。

このように、多くの悪い意見が誓願に付着している。すなわち誓願は罪の赦しと義とせられることに値するとか、誓願はキリスト教的完全をつくり上げるとか、誓願は勧めと戒めを守るものであるとか、誓願は超義務的善行であるとか言うようなものである。これらのことはすべて偽りで空虚なものであるから、誓願を無益・無効にしているのである。

第二十八条 教権について

監督権について大論争が行なわれて来たが、監督の或る者は不都合にも教会の権力と剣の権力とを混同したのである。そしてこの混同から、きわめて大きな戦争や動乱が生じた。

一方教皇らはキリストによって与えられたいわゆる鍵の権能をたよりにして、たんに新しい信心行事を制定し、赦罪宣言の留保事項によって、また乱暴な破門によって人々の良心に重荷を負わせただけでなく、この世の王国を或者から他の者へ移そうとしたり、帝王からその権力と権威とを奪取しようと努めて来た。

これらの非行は敬虔な学者達によって、久しい以前から教会内で非難されて来た。それ故、我らの教師達は人々の良心を慰めるために教会の権力と剣の権力との差異を示さねばならなくなった。そして彼らは、この二つは神の戒めの故に地上における神の主要な祝福として、正当に尊敬されるべきであると教えた。

さて、彼らの考えは次のようである。

鍵の権能、すなわち監督の権力は福音書によれば、福音を宣教し、罪を赦し、あるいは留保し、聖礼典を執行すべき神よりの権能、すなわち戒めである。なぜなら次のような委託をもって、キリストがその使徒たちを遣し給うたからである「父が私をおつかわしになったように、私もまたあなた方をつかわす・・・あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ20:21〜23)「全世界に出て行って全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)と。

この権能は召命に応じて、多数の者かあるいは個々の人に対して、福音を教え説き、また聖礼典を執行することによってのみ行使される。なぜならそれによって、形体的なものでなくて永遠的なもの、すなわち永遠の義、聖霊、永遠の命のようなものが与えられるからである。これらのものは、み言の宣教と聖礼典の執行によるのでなければ得られない。それはパウロが「私は福音を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に救いを得させる神の力である」(ローマ1:16)と言う通りである。

それ故教会の権力は永遠的なものを与え、またみ言の宣教によってのみ行使されるのであるから、それはこの世の政治に干渉しない。なぜなら、政治は福音と異なった事柄を取り扱うから。為政者は、魂を保護するのではなく身体と形体的事物を明らかな危害から保護し、そしてこの世の正義と平和とを維持するために剣と体刑とによって人々を拘束する。

従って教会の権力とこの世の権力とは混同されるべきではない。教会の権力は福音を宣教し聖礼典を執行するという自己自身の委託を持っている。教会の権力を他の職務に侵入させてはならない。教会の権力をして為政者の法律を廃止させてはならない。教権をして法律の遵守を棄却させてはならない。教権をして民事規定あるいは、民事契約についての判決に干渉せしめてはならない。教権をして国家の形態に関して、為政者に法律をおしつけさせてはならない。キリストは言われている。「私の国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)。また「誰が私をあなた方の裁判人または分配人に立てたのか。」(ルカ12:14)と。またパウロは言う「私達の国籍は天にある。」(ピリピ3:20)、「私達の戦いの武器は肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。私たちはさまざまな議論を破り」(2コリ10:4)と。このようにして我らの教師たちは、この両権力の任務を区別し、両者が神の賜物、また祝福として尊重され、認められるように命じている。

もし監督たちが剣の権力を持っているとすれば、彼らは監督として福音の委託によってそれを持つのでなくて、国王や皇帝からそれを受領して、彼らの持物のこの世的な管理のため、人間の法律によって持つのである。しかしこれは福音の役務とは別の職務である。

それ故、問題が監督の管轄権について求められる時には、この世界の権威は教会の管轄権から区別されねばならない。福音によれば、監督は、監督として、すなわち彼らに委ねられたみ言と聖礼典の執行権を持つ者として、罪を赦し、また教理を判断し、福音に一致しない教理を排撃し、また邪悪の明らかな者を人間の力によらず、ただみ言によって教会の交わりから除外する権を持つだけである。そしてこの点において諸教会は、神の法によって監督たちに服従しなければならない。それは「あなたに聞き従う者は、私に聞き従うものであり」(ルカ10:16)というキリストのみ言があるからである。

しかし彼らが、福音に反して何事かを教えあるいは決定するならば、このような場合には諸教会は服従すべきではないという神の戒めをもっている。すなわち「偽預言者を警戒せよ」(マタイ7:15)。「しかし、たとい私たちであろうと、天からの御使いであろうと、私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなた方に宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。」(ガラテヤ1:8)。「私たちは真理に逆っては何をする力もなく、真理に従えば力がある」(2コリ13:8)また「倒すためではなく高めるために主が授けて下さった権威を用いて」(2コリ13:10)ともある。教会法典も同様に命ずる。(第二章第七項、Sacerdotes及びCves)。またアウグスチヌス(ペトリウス反論の手紙)も「カトリック教会の監督たちが、たまたま間違ったり、正典である聖書に反して何事かを決定するならば、我らも彼らに賛同してはならない」と言っている。

もし監督たちが結婚とか、十分の一税とかのような或る問題を審理し、裁く時、何か他の権力あるいは裁判権を持つとすれば、彼らはそれを人間の法によって持つのである。しかし監督がその職務に怠慢なる時には、諸侯は平和を維持するため否応なしに、その民に対して裁判を行なわなければならない。

これらのことの他、監督あるいは牧師達が教会にあって式典を設定する権を持っているかどうか、また食物、祝日、教職の階級あるいは順位に関する掟を制定する権を持っているかどうかという論議がある。

この権威を監督たちに帰する人々は、次のような聖句を証拠とする「私にはあなた方に言うべきことがまだ多くあるが、あなた方は今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り来るべきことをあなた方に知らせるであろう。」(ヨハネ16:12、31)と。彼らはまた、血と絞殺された物とを避けるよう命じた使徒たちの例をも引いている(使徒15:29)。彼らは一見、十戒に反するかに見える安息日を主の日に変更したことを引く。そして、どの例においても安息日変更ほど、彼らが利用するものはない。教会が十戒の一つの教えを省いたので、彼らは教会の権威がきわめて大きいと言っている。

しかし、この問題について我らの諸教会はこのように教える。監督たちは、前掲のように福音に反して何事をも規定する権威を持たない。

教会法典もまた同様のことを教えている(「差別論」、第九)。なおまた、或る伝承の遵守を定め、あるいはそれを要求し、それによって罪の赦しに値しようとし、また罪のための償いとしようとすることは聖書に反する。なぜなら、我らがこのような行事遵守によって義とせられることに値しようと求める時、キリストの功績の栄光は汚される。しかも、このような見解によって伝承は教会において限りなく増加し、一方、信仰と信仰の義とに関する教理は抑圧されていることは明らかである。なぜなら次第に新しい祝日が設けられ新しい断食が定められ、聖人たちを記念する新しい式典や礼拝行事が設定せられた。それは、これらの事柄の創始者たちは、これらの行為によって自分達は恩恵に値しているのだと考えたからである。こうして過去に贖罪規定が増加し、今日なお贖罪行為の中にその痕跡を見るのである。

伝承の創始者たちは、食物や宗教日の類に罪を関係させ、律法の束縛をもって教会に重荷を負わせ、キリスト者の間にあって義とせられることに値するためには、レビ記のような信心行事、すなわち神が、使徒たちや監督たちにゆだねられた制度がなければならないかのように言う。これは明らかに、神の戒めに反している。それでも、彼らはこのように主張し、また教皇たちもモーセの律法だということで、まどわされている。他人につまづきとならなくても、祝日に労働するのは死に値する罪であるとか、教会法典の定める祈祷時刻を省くのは死に値する罪であるとか、或る種の食物は良心を汚すとか、断食は神をなだめる行為であるとか、罪が保留せられた場合においては、これを保留した者の権威によらなければ赦されることはできないなどと主張する。それにもかかわらず教会法典そのものは、ただ教会的処罰の保留を語るだけで、罪の保留については言っていない。

ペテロが「負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかける」(使徒15:10)ことを禁じ、またパウロが彼に与えられた権は、破壊のためではなくて建てるためであったと言って(2コリ13:10)いるにもかかわらず、監督たちは人々の良心をわなにかけるために教会の上にこれらの伝承を押しつける権利をどこから得るのであろうか。なぜ彼らはこれらの伝承によって罪を増すのか。

なぜなら恩恵に値するためあるいは、救いに必要な事柄としてこのような伝承を作ることを禁じる種々な明白な証拠があるからである。パウロは言う「だから、あなた方は食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、誰にも批評されてはならない」(コロサイ2:16)と。また「もしあなた方が、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定に縛られているのか。・・・これらの事は・・・知恵のあるしわざらしく見えるが、実は・・・」(コロサイ2:20〜23)と。またテトスに向って彼は明らかに伝承を禁じている。なぜなら彼は次のように言うからである。「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに気をとられることがないように・・・」(テトス1:14)と。またキリストは伝承をすすめる人々のことについて次のように言っておられる。「彼らもそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。」(マタイ15:14)と。またこのような信心行事を排撃して「私の天の父がお植えになったものは、みな抜き取られるであろう」(同13)と言われている。

もし監督たちが、無数の伝承をもって教会に重荷を負わせ、人々の良心をわなにかける権利をもっているとするなら、なぜ聖書はこのように何度も、伝承を作ったりこれに聞くことを禁じているのか。なぜ聖書は伝承を「悪霊の教え」と呼ぶのか(テモテ4:1)。聖霊がこれらのことをあらかじめ警告したのは無駄であったのだろうか。

従って、必要なものとしてあるいは恩恵に値すると考えられて設定せられた規定が福音に反しているからには、監督たちがこのような信心行事を設定し、あるいはこれを課することは正当ではないこととなる。なぜならキリスト者の自由の教理、すなわちガラテヤ書(5:1)に「堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」と記されているように、律法の束縛は義とされることに必要ではないということが教会内で維持される必要があるから。福音の主要条項、すなわち我らは人の作った伝承遵守や礼拝行為の故ではなく、キリストに対する信仰によって無償で恩恵を得るのだ、と言う真理が保持される必要がある。

それでは主日や教会の他の儀式についてはどのように考えられるのであろうか。これについて我らの教師たちは答えて言う、教会内で行事が順序よく行なわれるように、監督たちや牧師たちが規定をつくることは正当である。ただし、それによって我らが恩恵に値したり、あるいは罪の償いをするためではない。あるいは人々の良心がこれらを必要な信心行事と考えるように束縛せられたり、また他人をつまづかせることなくとも、これを破ると罪になると考えたりするためではない。パウロは次のように規定した「再び奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。福音の中心をいつも守って、キリストの義が、人間のどのようなわざによらず、信仰によってのみ得られるという恵みにいつも立っていなければならない。

日曜日の礼拝やその他の礼拝行事について、教会が愛と平和のためにこのような規定をつくり、互いにつまづかせず、教会内で諸事が秩序よく、混乱もなく取り行なわれることは正当である。しかしこれらのものが救いに必要なものと考え、たとい他人をつまづかせなくとも、これを破ると罪になると判断したりして良心を苦しめてはならない。たとえば、婦人が頭に物を被らないで公けの場所に行ったとしても、人々をつまづかせることがなければ、その婦人が罪を犯していると誰も言いはしないであろう。

この種のものは主日、復活祭、聖霊降臨日や同種類の祝日や儀式の遵守である。なぜなら教会の権威によって、安息日の代りに主の日を守ることが必要なこととして制定せられたと考える人々は、大いに誤っているからである。聖書は安息日を廃止した。なぜなら、聖書は福音が啓示されてからモーセの祭式はことごとく省かれると教えるから。しかも、人々が一緒に集うべき時を知り得るように一定の日を制定することが必要であったから、教会(使徒たち)がこの目的のために主の日を制定したと思われる。またこの日は、更に他の理由によって選ばれたと思われる。すなわち、人々がキリスト者の自由の例証を持ち、安息日や他のいかなる日を守ることが必要でないことを知り得んためであった。

律法の変更、新しい律法の儀式、また安息日の変更について奇怪な議論があって、それらはことごとく、教会にはレビ記の中にあるような信心行事がなければならないとか、キリストは救いに必要な新しい儀式を考案することを使徒たちや監督たちに委ねられたという誤った信仰から出ている。これらの過誤は信仰の義が充分に明確に教えられなかった時に教会の中へ潜入したのである。ある者は、主の日を守ることはなるほど神の法から出ているものではないが、いわば神の法のごときものに由来するのだという。また祝日に関しては、その日にはどの程度まで働くのが正当なのかを規定する。このような議論は人々の良心のわな以外の何であろう。なぜなら彼らが伝承を緩和しようとしたとしても、なおその必要論が残存する限り、公平な態度は認められない。その必要論は、信仰の義とキリスト者の自由とが無視せられる場所に必然的に残るのである。

使徒たちは、「血を、避けるよう」に命じた(使徒15:20)。今日、それを誰が守っているだろう。しかもそれを守らない者が罪を犯しているのではない。そのわけは使徒達自らは、このような束縛によって人々の良心に重荷を負わせようとはせず、ただ彼らは、つまづきを与えないように一時それを禁じたのであった。なぜなら、いかなる教令においても我らは福音の目的とは何かをたえず考慮しなければならない。

どのような教会法典にしても正確に守られることはまれであり、最も熱心に伝承を擁護する人々の間でさえ、日々に多くの法規が用いられなくなる。また教会法典が別に必要なものと思わずに守られていること、また伝承が不用となっても人々の心は害を受けないということを我らは知るべきであるというこの緩和が守られるのでなければ、人々の良心に適当な注意が払われるはずもない。

しかし、もし監督たちが善き良心をもって守り得られないような伝承を固執しないとすれば、彼らは人々の正当な服従を容易に保ち得るであろう。さて彼らは独身生活を命じる。また彼らは福音の純粋な教理を教えないと誓うのでなければ何人をも受け入れない。

諸教会は監督たちに、その名誉を失ってまで平和と一致とを回復してくれと願うものではない。もちろん、善き牧師たちはそれをすべきであるが。諸教会はただ、新しくまた公同教会の慣習に反して受け入れられている不正な重荷を取り除くよう求めるだけである。或る規定は、それが設けられた当時にはそれ相当の理由があったであろう。しかし、時代が経つにつれて不適当なものとなる。また或るものは誤って受けいれられたことは明らかである。それ故に、それらを今緩和することは、教皇の寛容にふさわしいことであろう。なぜなら、このような変更は教会の統一を破棄するものではないからである。教会法典も告げているように、多くの人間が設立した伝承は、時と共に変更されて来ているからである。しかしこれらの行事遵守が罪なくして守り得られず、それらの緩和も獲得せられないとすれば、その時我らは「人間に従うよりは神に従うべきである」ことを命じる使徒の規則に従わねばならない(使徒5:29)。

ペテロは、監督たちが支配者となり教会を支配することを禁じている。(1ペテロ5:3)。我らの意図は監督たちから支配権を奪うことでなくて、唯一つの事柄だけ、すなわち福音が純粋に教えられることを彼らが許すこと、また罪なくして守られ得ないような数種の行事遵守を緩和することが要求される。しかし、もし彼らが何をも許さないなら、彼らは自分たちの頑迷によって教会分裂をひきおこしたことに対し、神に向ってどのように申し開きをするべきかを知るべきである。


結   論

これらが論争中のものと思われるものの主要条項である。我らは更に多くの悪弊について語ることができるけれども、不当な長さを避けようとして要点だけを呈示したが、それによって他を判断することは容易である。赦免券、巡礼、破門の悪弊に関しての不平は大きかった。諸教区は赦免券販売人によって種々なことで悩まされて来た。教区の法律、ざんげ、埋葬、特別な場合の説教、また無数の他の事柄について牧師と修道士たちとの間に際限の無い論争が生じた。我らがこれらの事柄を省略するのは、重要なものが簡単に述べられることによって、悪弊が一層たやすく注目せられるようにするためである。ここに語られまた引用せられたことはいずれも、だれか個人に対して、非難を投じる目的のためではなかった。我らの教理や式典において、聖書あるいは公同教会に反して受け入れられたものは何も無いことが理解せられるようにするため、語ることが必要と思われる事柄だけが列挙せられて来た。われらが新しい不虔な教理が我らの諸教会の中へ潜入しないように熱心に注意を払って来たことは、明白であるからである。

陛下の勅令に従って上記の条文を奉呈する。ここに我らの信仰告白が存し、またここに我らの間にあって教える人々の教理の要綱が見られる。これ以上のことが望まれ、またみこころならば、我らは聖書に従って更に行き届いた報告を奉呈する用意をもつものである。

陛下の忠誠、従順の臣
ザクソン選帝際ヨハネス
ブランデンブルグ侯ゲオルギュウス
ルーネブルグ侯エルネストゥス
ヘッセン領主フィリップス
ザクソン侯ヨハネス・フリデリックス
アンハルト侯フォルガングス
ニュールンベルグ市長並市参事会員
ロイトリングン市長並市参事会員
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